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スリップ・ノット

「おや、珍しいですね」
 彼が連絡も無く街の方の事務所に来る時は、そんな風に言うことにしている。
 実際、珍しいことではあるが、言葉で指摘するほどでもない。
 こうやって訪れるタイミングは決まっていて、想像通り、ベルナルドは明らかな不機嫌を表情に乗せた。
「嫌味か」
 扉に手をかけたまま彼は苦々しく言って、私は笑顔を返す。
「今日の仕事をキャンセルするんですから、嫌味の一つくらい言われても仕方がないんじゃないんですか」
 それだけでベルナルドは黙り込んで、扉を潜り後手に乱暴に閉めると、やはり勝手に来客用のソファに腰を下ろした。
 私はそのまま何も言わず、電話に手を伸ばす。清掃会社という偽造の為に入れていた仕事を幾つかを先延ばしの連絡を入れている間に、ベルナルドは勝手知ったる応接コーナーでコーヒーを淹れ、不機嫌な顔のままそれを飲み始めたが、放って置いた。
 幾つかの電話連絡を終え、黙って隣に座り、黙ったまま置いてあったコーヒーに口を付ける。ゆるい温もりと、やがてじわりと甘味が舌に訪れる。
「――俺はラグに感謝するべきなんだろうな」
 唐突にベルナルドがそんなことを言うものだから、笑い声を漏らす。
「いりませんよ、面倒くさい」
「言うと思った」
 ふ、と鼻で笑うような吐息は、安堵の色をしていた。今更、私の何を計ろうというのか。
「誰かを殺したくなったんですか?」
 温いコーヒーに唇を濡らしながら問えば、視線を自分が手にしたカップの中に落としたベルナルドがためらいがちに口を開く。
「……違う」
「じゃあ、死にたくなったんですか」
 今度の問いかけには、沈黙で彼は答えた。
「いつもの病気ですね」
 仕方のないことだ。誰かが、彼の陰鬱とした部分を許さなければならない。
 その相手を女性に求めることも、彼がこがれてやまないあの青年にも誰にも晒せない臆病な人間で、似た境遇でどこか人ではない(と彼が思っているのだろう)私にだけ明かすことでようやくギリギリのところで心の平穏を得ている。
 何事も言えなくなった、もう若くもない男の頭を撫でた。
「僕の方がきっと先に死ぬのに、どうするつもりですか、あなたは」
 あやすように柔らかな髪に手櫛を通し、そんな突き放すことを言えば、ベルナルドはどうでもいいことのように「分からない」と呟く。
「きっとほかのなにかを代役にするんだろう。それは誰かかもしれないし、執務室の壁かもしれん」
 彼の口にする未来を想像して、どうにもいたたまれない気持ちになったので、私の肩にもたれかかっている男のこめかみに口づけた。
 深い、呼吸が聞こえた。
「……一緒に死のう、なんて言えないからな」
 ベルナルドは閉じた世界にいる。そこから出ることを諦めて、けれどそこにいる幸福をなんとか守ろうと足掻いている。
 そこは、きっとひとつも私と変わらない。
 だから手放せず、離れられないのだろう。
「ラグ――」
 それでも時折、途切れてしまう息を何とか継ごうとする男は、水面を求めるように手を伸ばしてきた。
 拾い上げた手の爪先に唇を触れさせ、ソファに押し倒す。
 頬を撫で、そのまま酷く細い印象の首に指を這わせれば、ベルナルドは穏やかに目を閉じた。
 少しずつそこに体重をかけて行けば、細くなる呼吸の隙間で彼は小さく喘ぎ、とろとろと口の端から唾液を零す。
「ベルナルド」
 名前を呼べば、薄く開かれた目は確かに笑っていた。
 唇が動き、声もなく「気持ちいい」と呟いた。
 哀れな男のその唇に口付ける。
 縋るベルナルドにも、許す私にも同じだけ罪がある。そして救いがない。
 二人が同じ場所にいられる未来など、どこにだってなかった。