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Na2SO3(3)-取り落とした世界

 素足の足音はたどたどしく、話す声は不明瞭で間延びしている。それはこの子供が時折演奏する酷く正確すぎるピアノよりも、正しい意味で歌のようだった。
 冷えた指先が顔に触れてきたので目を開けると、眼鏡越しのどこまでも透明なグリーンが俺を見ている。やはり子供は歌の続きのよう、曖昧に溶けた言葉で俺の名前を呼んだ。
「どうした……?」
 男にしては長い髪に指を入れる。猫だか犬のように目を細めた子供が、すりっとソファに横になったままの俺に身体をすり寄せてきた。
 まだぬるま湯に片手が半端に浸かっているような、夢に過去を見ている気分だ。子供はくずり始めて、俺の髪を口に含んで食べるようにしゃぶったので、手で遮ると不満げに今度は指をぱくりと噛んだ。
 知性のない目と視線があった。――子供ではない。ただの頭の大事なところをなくしてしまった、俺よりも年上の男だ。そして、目の前の光景は過去でも夢でなく、毎日に目を背けたくなる現実だった。
 噛まれている指を取り上げて、薄い背中を抱く。まだぼんやりとした目で部屋に視線をやると、床に直接置かれたままの子供が玩具にしていたタイプライターから吐き出された紙が、何度でも文字を重ねられたせいで四角く床を切り取ったように黒く転がっていた。白く抜け落ちてしまったこいつの頭とは、逆さに。
 ベルナルドが死んでしまってから、もう半年が過ぎていた。
「ああ、起こしてしまいましたか」
 曖昧な空気を破るように、聞きなれた声がする。
 ゴツゴツとブーツの底が床を叩く足音に、俺は子供を抱いたまま身体を起こす。子供はまだぐずったままで声の主から顔を隠すように俺にしがみついた。
「大人しく遊んでたので、食事を用意していたんですが」
 珍しくフードを脱いだままのラグトリフが、さっき子供がしたように俺の顔に手を伸ばす。線を引いたような口元といい、人ならざる雰囲気といい、他人に人形のような印象を持たせる気味の悪い男とこんな気安い仲になっていることが、また夢の続きのように思える。
「もう少し寝てはいかがですか。まだ時間もありますし」
 渇いた指先が、咎めるように目の下をなぞったので苦笑した。似たような光景を、俺ではなくこの子供にしていた光景を思い出したのかもしれないが、すぐに忘れることにした。酷く、無意味に俺の心の弱いところを傷つけるからだ。
 昔から、こいつはそういう男だった。死んでからもそうなのだから、生と死の境目に俺は現実をよく見失いかける。こんな風に。
 俺がまた無為にぼんやりとしている間にも、子供がまるでお気に入りのぬいぐるみを取り上げられそうになるのを拒絶するかのように拘束を強め、俺はようやく首を横に振った。
「どうした、眠いのか?」
 体躯はあの頃よりさらに痩せた癖に、力加減が効かない腕に痛く抱きしめられて、それでも優しく背中を撫でる。言い聞かせたところでどうせ、覚えていない。
 ラグは俺の言葉にため息を零して、また部屋を出て行く。諦めているのだ。子供にも、俺自身にも。
 部屋の向こうからは、なにかスープの煮える匂いがする。
 子供を抱き締め、何もない昼下がりにこうして過ごしていることは、平和な気がした。
「それともおなかすいたか?」
 本物の子供に言い聞かせるように言うと、ふらりと顔が上がった。それが正解かどうかは分からなかったが、ズボンのポケットに押し込んだままだったロリポップを引き出した。
 昨日の夜に、ジャンから貰っていたのを思い出したからだ。
 体温で溶けてねとつくパッケージを剥がすと、白いスティックにピンク色の砂糖菓子が張り付いている。
 まじまじと見ている子供の唇に指をつけて、自分が口を開けて見せると、俺を真似て子供は「あー」と小さく声を上げて唇を開いた。
 そこにロリポップを入れてやって、スティックを掴んだまま舌に擦りつけてやる。暫くキョトンとしていた子供は、味が分かったのか俺の手を掴んでそれをもぐもぐと舐め始めた。
「……ジャンからだよ」
 俺はそう言ってみたものの、子供はなんのリアクションもしない。いい加減、俺も諦めれば楽になるだろうとは分かっている。
「ジャンが、……」
 言いかけて、ジャン自身もこれを子供に上げろと渡してきたわけでない事実に、言いようもない気分になった。あいつは俺を心配して、これをよこしてきた。こいつにじゃない。
 何もかもがこの子供を置き去りに過ぎ去っていく。俺ばかり手放せず、ずっとここにいる。
 喉を詰まらせないように掴んだままのロリポップが、舌と歯になぶられて緩く揺れた。
「…………なあ――」
 呼びかけかけた唇を、子供がじっと見ている。それでもその先はどうしても言えない。
 パキリ、と体温の中であめだまが砕けたのが、指に伝わった。
 手が離れると、やはりタイミングは失われた。手に残された白い棒を俺はなんとなしに咥え、安っぽい匂いを味わう。味もない残り香のような生活に、俺は何を見出そうとしているのか。
 俺の膝の上で小さくなったあめの欠片を咀嚼していた子供は、暫くして何もなくなった舌を出して首をかしげ、視線を再び上げた。
 じいっと見つめた目が屈託なく笑い、再び腕を伸ばされる。
 肩に抱きついてきた子供の顔が近づき、瞼にキスを――いや、そのまま目に舌をさしいれてきた。
 ぬるりと触れた先から目の淵が冷えてぞくりとする。
 俺の眼球をひと舐めした子供は、また首をかしげた。それで、俺の目を砂糖菓子と勘違いしたのだと理解した。
 飲み込みかけた棒を吐き出して、濡れた瞼を拭おうとすると押し倒される。ソファに再び沈んだ身体の上に乗った子供が、もう一度と瞳に唇を付ける。反射的に閉じた瞼はぬるい舌にこじ開けられ、ぬるぬると虫のように這う舌に視界を奪われて、涎が目尻を滑っていった。
 水面をもがくように上手く抵抗できなかった手がようやく子供の髪に触れると、子供もあめだまじゃないのがようやく理解できたのか、小さく呻いてまた抱きついてきた。
 結局にこいつが欲しがっていたものが甘い菓子かどうかさえ、よく分からないまま、俺はため息を吐き抱きしめ返す。これ以外の方法は分からなかった。俺には、抱きしめている死体に名前を付ける勇気すらないのだから、きっと終わる日まで何もわからないままな気がした。
「……おや、泣いていたんですか」
 いつの間にか部屋に帰ってきていたラグが俺の顔をみてそう言って、俺は本当に泣いてしまいたい気分で首を横に振った。