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きみがみてるだけ

 何年か前だったら、グラスの底の飲み残しすら舐めることすら出来なかったような高級なシャンパンで唇を濡らしている。高い酒は、運んでくる酔いさえ上等らしい。
 セカンド・カポとして"こういう場"に顔を出すようになってまだ両手足の指で足りる程度の俺は、社交界の会場のシャンデリアの煌めきも、どこぞの令嬢からワルツに誘われるような酔いにもまだ慣れてはいなかった。
 居心地の悪さを埋めるように、チンピラのごとくグラスを干したのを、指南役たるルキーノが片目をすがめてたしなめる。
 俺はバツが悪いまま肩をすくめて、けれど叩かれることはなく、ルキーノは俺の部下の立ち位置からは動かない。立食パーティでなければ咳払いのひとつもされていそうだったが。
 目の前の光景を覚えるように眺めても、やっぱり、俺には慣れる日が来るようには思えなかった。俺がルキーノを顎で使うようなシチュエーションを想像したが、出来損ないの映画みたいにオチはなかった。
 酒も料理も美味いにしても、マナーが窮屈なのであまり楽しめてはいなかったが、これも仕事のウチだとは分かっている。俺が新しい客寄せパンダだというお披露目の意味も兼ねていること、それくらい鬼教師に言い含められずとも、学がないなりに(ないからかもしれないが)分かっていた。
 離れたテーブルではベルナルドがどこぞの年寄りの機嫌を取っているらしいのが見えた。喧騒に紛れて会話は聞こえないが、ベルナルドは面倒な電話を受けた時と同じ顔をしている。
 放っておいていいのか? とルキーノに目配せしたが、ルキーノはまるで聞いていないような顔でフルートグラスに口をつけた。オンナが見たら擦り寄ってきそうなほどサマになっていて、俺は惚けかけて我に返った。
 かぶりを振って、ベルナルドの方を再び見る。老人が俺を一瞥して、何かベルナルドに言う。
 ああいう、年寄りの顔は見慣れている。年寄りでなくても、デイバンの外に出れば"アメリカ人"が向けてくるのと同じだ。侮りというには軽すぎる。蔑み? いやもっと、路傍に吐かれた痰を見るような、とでも言えばいいのか?  だから、ベルナルドが何を言われたかも大体察しがついた。あんなの、自分一人の時だったら何とも思わないことだ。けれど、俺はまるで自分の仕事を全う出来ていないのが目に見えてしまって、舌打ちをしかけ……たのはジャケットの裾を引かれて踏みとどまった。
 手元は丁度テーブルで死角になっていそうとは言え、ストリートのガキが小銭を強請るように俺のジャケットを引いていたのがルキーノの手だったので、俺はぎょっとした。
「いいから、そのまま見てろ。それがお前の役目だ」
 止まない喧騒の中でも、ルキーノの声は夜中に聴くラジオみたいに何ものにも邪魔されず聞こえて、けれど薄汚れたノイズは少しもない。
 ベルナルドはこちらも見ずに笑ったようだった。
 一言、二言薄い唇が何かを告げる。
 どこからか血相を変えた誰かがやって来て、老人に耳打ちをすると、見る間に老人の顔は赤くなって、すぐに青ざめた。
 "カポ・ジャンカルロ"とベルナルドの口が俺の名前を呼んだのが見て取れた。 ここ数週間、何度も見た口の動きだったので、それだけは聞こえてしまった。
「……ジャンカルロ」
 ルキーノに促されて、俺はそういう機械のように役割を果たした。
 なんてことはなく、グラスに口を付け目を細める。ただそれだけで、肩を震わせ、こちらをもう一度向いた老人の表情は、畏怖の色に染まる。
 ――こいつらは、うら若き青年に何てことをさせるのだろう。半ば転がるように走り去った老人の背中を眺めながら、そう思った。青年て年かとも自分で突っ込みをいれざるえなかったが。
 一仕事を終えて、愉快そうな顔でベルナルドがこちらに戻ってきた。俺のげんなりとした顔に気づいたのか、より一層笑みを深めて。
「フハハ、及第点にはもう少しかな」
 もうボウイも寄ってこないテーブルのシャンパンクーラーからボトルを取り上げ、ベルナルドは俺が手の中で空のままだったグラスになみなみと高い酒を注いだ。
「あのジジイにはどうせ見えてない。合格点くらいくれてやれ」
 機嫌のいい猫のような笑い声を今度は背中から受け、俺は胃が縮む思いでまたチンピラみたいに酒を煽った。