柩に満たされた赤い花の話
「例えば」と。
生きているうちに何度、頭の中で作り上げた仮想的な自分や他人を考えるだろうか。
願望でもあるし、危険回避の為の想定でもある。けれど、例えば左を選ばなければ、例えばヘマからマフィアの道を選ばなければ、例えば将来に身分不相応な平穏を選ばなければ、例えば――。
俺はそうやって、選べなかった過去にばかりを嘆いて来た。
お前も、過去を嘆いたりするか?
もう届かない言葉をこの先、何度投げかけるのだろうか。
カーテンを引き、窓を開け放つと、緩やかな風が部屋に入り込んだ。
その風は決して清々しいとは言えなかったが、室内の淀んだ空気よりは幾分かましだった。ベッドに振り返ると、横たわっていた男はうっすらと目を開けている。
「チャオ、ルキーノ」
呼んだところで案の定、返事はない。ぼんやりとしたルキーノの右目がゆっくりと瞬かれてそれきりだった。
ベッドの端に座り、伸びた赤い髪を指で梳くように撫でると、ルキーノは猫のように目を細める。
かさりと音がした。ベッドに横たわる男の左目に茂った草花が微かに揺れて、彼はむず痒そうに身を捩る。
男の髪よりも、さらに赤い花が咲いていた。
それがルキーノの左側を蝕み始めたのは、半年以上前の事だ。もう、一年は経ったかもしれない。
最初は左目の痛みだけだったが、やがて視力を奪い、眼球そのものを割って花が咲いた。理由はどこの医者にも分からなかった。
その根が、脳の何処かに触れているからか、やがてルキーノは一つずつ穏やかに言葉を失い、進行は緩やかではあったが滴り落ちる水のように確実に彼の中身を失わせた。
もはや記憶や意識が残っているかさえ疑わしい。
会話が成立しなくなって、半ば幽閉されるように本部の奥に一室を充てがわれてから、ベッドを起き上がれなくなるにはそう時間は掛からなかった。
まだ目が覚めていた頃は、自分の頭を巣食う鮮やかな花を苛立ちのまま引きちぎり部屋で暴れることもあった。その方が健全であったとさえ思える。
まるで俺は生きていると言わんばかりに伸び続けている髪を撫でながら、そろそろ邪魔だろうから切ってやらないと、と思う。
切るのなら、左目から零れベッドの柵にさえ枝葉を付けようとする、この花をするべきだったのかもしれない。
何気なく蔓に手を掛けると細かな棘が指を傷つけた。表面より奥に赤みがかって見える禍々しい色の蔓を、ルキーノが自らの手を傷だらけに引きちぎった時、ちぎれた場所からも血が流れていた。
ルキーノ自身に根付いているのだから、それはある意味当然だった。けれどそれは彼を絶望させるには十分だったらしい。
この男は、俺とは違い痛みと共に生きていけるような性質ではなかった。目を背けることのできない事実を突きつけられ、だから程なく中身は死んでしまったのじゃないかと思った。
ジャンは、この部屋に訪れる度にそれを否定して、きっとまだ起き上がれると言うけれど。
指に滲んだ血に苦笑して、これはただの感傷だと首を振る。
生きていると喚く身体を無視して、再び声を聞くことも最初から諦めて、ルキーノの死を受け入れている俺に、傷つく権利はない気がした。
死体を生きながらえさせて、俺は何に縋っているのだろうか。
「例えば、もっと昔にお前は死ねたら幸せだったんだろう。この華が咲いてからか、あるいはもっと前――そうだな、お前が妻子を失った頃に。いや、そもそもマフィアに身を落とす前か、家が没落する前か、転がり落ちた最後にこんな場所にたどり着くなんて、お前は少しも考えはしなかっただろう?」
俺より出会う前に、死んでしまったルキーノを空想した。
目の前の男の幸せを願った筈なのに、俺はどうしようもない気分になって今すぐ首を括りたくなった。
まだ死に切らない男は、俺とは逆さにきっとまだ生きようとあがいているのに。――どうせ蝕まれるなら、終焉への憧れより花の毒のほうがいくらか人らしい。
「結局まだ、お前が羨ましい」
いつだって死にぞこないでしかない俺は、柩に片足突っ込んだ状態でまだ死人に下らない憧れから、キスをした。