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ハイド・アンド・シーク

2-1

 カチカチと、時計の針のような規則正しさで、トタンの上を歩む音がした。
 浅い眠りの上に刻まれる音に、半ば無意識に手を伸ばしカーテンを開く。眩しさに目を細めると、黒い影があった。
「……ラグ」
 名前を呼ぶと、コツコツと鴉が窓を行儀良くノックするように、嘴で叩いた。
「勝手に人の名前使わないで貰えますか、ベルナルド」
 近くから声がしたので身体を起こすと、カップを差し出される。カプチーノの良い香りがして、今まで気づかなかったのが不思議なくらいだった。
「似てるからいいだろう」
 あくびを噛み殺しながらカップを受けとり、窓を開ける。
 ラグは黒いグラスに遮られた目を細め、呆れた顔をしていたが、鴉は人の会話を理解できてない風を装って、首を傾げた。
 サイドテーブルにあった皿の上の、深夜に食べ残したサンドイッチを窓の外に放ると、またカチカチと足音を響かせて場所を移動した鴉がつまみ始める。猫に懐かれるより、よっぽど自分に似合っている気がした。
「深夜に電話してきて、仕事かと思いましたよ」
 ラグは空いた皿の上に新しい皿を重ねる。その上にはこのアパートメントの前に出ている屋台で買ったのだろう、マフィンとクロワッサンが乗っていた。
「仕事は仕事だろ。金は払うぞ」
 そう言いながら、同じサイドテーブルに置きっぱなしにしていた昨日の新聞を膝の上に広げて、クロワッサンを齧り始める。
「休日朝の準備すら渋るようだから、ベルナルドは僕以外に友人が居ないんですよ」
 よく躾された執事のような優雅さで、食事を摂っている俺の髪をブラシで梳かし始める。もっとも、本物の執事であったならこんな口は利かないだろうし、食事が済むまで待っているんだろうが、俺にはこっちの方が居心地が良かった。
「この歳になると、もう新しい交友関係を作ろうなんて気力もわかなくてな」
 暗にお前もじゃないかと言えば、背後にいるラグが微かな笑い声を漏らす。
「僕はあなたほど、人間に絶望していませんので」
 涼しい調子で言われ、俺もまた、ため息をついた。
「裏切り者め」
 笑ってぼやきながら温められたマフィンを齧りながら窓の外を見る。乾いたパンを啄ばんでいる鴉も、俺のことを横目で見ているような気がした。
 少し前の自分には到底手に入れられそうにもなかった光景に、夢の中にいるような気さえする。
「さて、僕はもう行きますよ。あなたの貴重な休暇を占領して、赤毛の猫に祟られでもしたら大変だ」
 気がつくと、ラグの手で女のように一本の三つ編みにされた髪に苦笑する。そういえば、以前にもこの髪型にされたことがあったと毛先を弾いた。
「お前が俺を甘やかすからいけないんだ」
 堂々と自分のことを棚上げしてラグを責めたが、ラグ自身も慣れた様子で俺の言葉を無視する。
「いい加減、僕以外にも甘えられるようになってください」
 そう切って捨てて、手早くブラシを片付けるラグの背中に問いかけた。
「あの猫にか?」
 ラグの使った比喩を拾って言うと、彼はひどく曖昧に微笑む。目の前の男が、口にはしないまでも態度から滲ませた苦言をひしひしと感じて肩を竦めた。
「お前は俺の母親みたいだな」
「あなたみたいに可愛気のない子供の親になるのは、願い下げです」
 パタン、とラグは引き出しを閉じるとフードを被り直す。
「良い休日を」
 あとはもう、声を掛ける隙もなくラグはいなくなった。
 いつもの光景だ。
 ようやく眼鏡を掛けた。
 はっきりと開けた視界の中で、日に焼けてくすんだ白い
カーテンが揺れる。
 鴉もまた、既に立ち去ったあとだった。
 やはり似ている、と思った。




1-1

 筆頭幹部と次席。その立場から、俺とルキーノが二人同時に休日を取ることは滅多にない。
 本当にたまたま、まったくの偶然にもオフが被るのが分かったのはちょうどひと月前だった。
 それに気付いていたが、黙ったままルキーノに通知の書類を渡したところ、書類と俺を交互に見てから、咳払いを一つし「逃げるなよ」と言い放ったものだから流石に観念した。
 とりあえず、ルキーノとは恋人という関係だったので。
 逃げたら、具体的にはベッドの上でひどい目に合わされそうだ。

 本部に出向く時と変わらない日課の通りに着替えを済ませ、自宅の一つにしているアパートメントの一室で、ベッドに腰掛けたままラグが買っておいてくれた新聞を広げる。
 窓の外は良い天気で、ルキーノにどこに連れ回されるのか考えかけたがやめた。まあ、面倒ではあるが、あいつのことだ。悪い思いはしないだろう。
 随分と自分も甘い考えをするようになった気がする。
 そもそも、ジャン以外に絆されたというのが、いささか俺には不本意なのだ。酔った勢いのような関係ではあったが、あいつが俺のような男に愛想を尽かさないのが違和感の正体なのかもしれない。
 一面を読み終えた頃に、ドアをノックする音がして取り留めもない考えをやめて立ち上がる。
 玄関のドアを開けると、当然だがルキーノがいた。
 不自然に凍った笑顔を浮かべて。
「ベルナルド」
 ルキーノの方も、普段通りのコンプレート姿で、その笑顔以外は何の代わり映えもない。
「うん?」
「すまん」
 唐突に、ルキーノが謝罪の言葉を口にした。
 どんな金額を書き込まれた請求書を持参してくる時でも、涼しい顔をしている男がだ。誰でなくても嫌な予感がする。
 案の定、ルキーノの背後で、正確にはこのアパートの外から地響きがした。車でも爆発したかのような。
「…………何連れてきた」
「いいから入れろ!」
 素人強盗のように部屋の中に押し入ってきたルキーノは、そのまま後ろ手で扉を閉める。
「俺の車だな、今の音……経費、だよな?」
 玄関でしゃがみこんで頭を抱えたルキーノは、ちらっと俺の方を見上げたが目も合わせずに言う。
「オフ日に経費が落ちると思ってるのか、お前は」
 吐き捨てるとルキーノは再び地面とキスする勢いで項垂れた。
「よりによってどうしてウチに連れてきたんだ」
 可哀想な風体になっているルキーノの頭上に言うと、恨めしそうな目がこちらを見る。
「こっちに来る時に尾けられたんだよ。護衛帰した途端だぞ」
「引き返せばよかっただろ」
「その選択肢はなかった」
「なにキリっとしてんだ」
 べしりと色男にセットされた赤毛を叩くと、ルキーノはブツブツとぼやき始めた。
「大体、この辺は俺のシマどころか、うちの組と他所との緩衝地帯だろ。こんなところにヤサ構えてるあんたも悪い」
「だからこそ都合が……」
 開けっ放しだった窓の方から、近所の人間のざわめきは聞こえない。代わりに、車から何人かの人間が降りてくる音と、会話をするような気配を感じる。
「ああ、もういい」
 とっとと事態を収める方が先だと、ルキーノを手を差し出して立たせた。
「で、相手に心当たりはあるのか?」
「まあ今まで惚れさせた女の数くらいは」
 遠まわしの「ノー」に口元に手をやり、考える。相手が分からない以上、下手な対策は出来ない。一旦ここを離れるのが得策だろうと独りで頷いた。
「もう少し多く見積もっていいと思うぞ」
「女を?」
 都合のいい解釈をため息で流して、飼い犬にするように奥の部屋を指さした。
「ベッドの下の床板剥がしてろ。下の部屋に抜けれるようにしてある。それと武器はマッドレスの中だ。言っとくが、9㎜は置いてないぞ」
「他人の用意した銃なんか使えるかよ。――それより、あんたは?」
「先に露払い」
 玄関先の箒を拾い上げ、柄で天井を叩いた。板がガコンと音を立ててずれ、差し出した手にボトリと掌サイズの布袋が落ちてくる。
 ボサっとしている男に多少なりと苛立ちながら、袋の中から緊急用の「道具」を取り出す。
「こいつを口に突っ込まれたくなかったら、言われた仕事をしろ」
 中で遊ばせる「道具」と俺の顔を見比べてから、ルキーノは呆れにため息を吐いた。
「あんた、なんつー物騒なもんを……」
 無言で仕事用の笑みを浮かべると、ルキーノは今度こそ察したらしく、肩を竦めて部屋の奥に引っ込んでいく。
 室外から声はまだ聞こえないが、時間の問題だろう。
 玄関の壁にかけてあった鏡を外し、ドアに隙間を開けて廊下に差し込む。突き当たりの階段を、銃を構えたまま探り探り上がってくる人影が、一人二人……三人、見えた。
 鏡を部屋の中に戻し、そのままピンを引き抜いて二秒を数え、顔は出さずに手首のスナップだけで階段の方にグレネードを投げた。
 扉を閉め一応施錠をしたタイミングで、ズシンとくぐもった爆音と共に再び床が震える。
「崩れないのか、このアパート」
 部屋に戻ると思ったより手早く床板を剥がし終わっていたルキーノが、ホルスターを差し出してきた。
「俺がそんな建物選ぶ訳ないだろ」
 ベレッタが収まったそれを受け取って手早くベルトを留めると、ベッドサイドに掛けたままだったジャケットを羽織った。数週間ぶりの休日だったのを思い出して、うんざりとする。
「おい、豆鉄砲しか置いてないのか?」
 ご丁寧にトレンチコートと予備マガジンまで差し出してくれた男は、どうやら俺の苛立ちを理解してくれていないらしい。
「当たらん大砲よりはマシだろ」
 リアクションは確認しないままコートを羽織り、そのポケットに乱雑にマガジンを詰めた。ずらしたベッドの下に空いた暗い穴に片足を突っ込んで感覚だけで金具を弾く。ガコ、と階下の天井の板が外れ、簡易の梯子がスライドして現れる。
「よっこらせ」
「ジジイかよ」
 斜めに掛かった梯子を降り始めた俺の背中に難癖を投げつける男にちらりと振り返り、冷たい視線を飛ばす。
「肉体労働は専門外だ」
「元軍人がなに言ってやがる」
 たわいもない会話を流したが、ルキーノはまだ何か笑っていて怪訝にもう一度その顔を見た。
「いや、今すげえ懐かしいこと思い出した」
 言われてから、恐らく同じ記憶にカチ合って苦笑する。もう何年も昔の話だが。
「そうか。過去を懐かしみ出したら、年寄りの始まりだ」
「うるせえ」
 最近めっきり自分の年齢が気になっているらしい男は、
煽り文句一つでむくれる。その顔を見て、自分もまた昔のことを思い出した。
「また行員になればいいだろうって言うのか?」
 階下の空部屋に降り、梯子を降りてくるルキーノに振り返る。
「あんたそのセリフ、随分と根に持ってたな」
「ああ。たっぷり嫌がらせをさせてもらった」
 同じ床に降り立ったルキーノが、俺の言葉に唖然とした。
「……――やっぱり嫌がらせだったんじゃねえか」
 たっぷり間を置いてからそう零した男に、にこやかな笑みを向けてやる。
「他のなんだと思ってたんだ?」
「ファンクーロ……」
 舌打ちと苛立ちをそのまま吐き捨てたルキーノに、ついでにと告げておいた。
「言っておくが、部屋の被害もお前個人に請求してやるから覚悟しろよ」
「はあ? 爆破させたのあんただろ!?」
「知らんな」
 裏口を開ける俺の背中に猫というよりは子犬のような喚き声が飛んできて、ついつい笑ってしまった。




0-1

 昔の話だ。
 重苦しい扉の前に立ち、ネクタイの位置を直してからノックをする。
 本来なら護衛がいる筈の場所には、人払いの為か誰もいなかった。
 ほんの数ヶ月前まで、ここに立つたびに首を真綿で絞められる気分だったが、今では多少穏やかな気持ちでいられる。
 室内に足を踏み入れると、定位置に座るカポ・デルサルトの隣に、まだ二十歳そこそこを過ぎたばかりだろう青年が立っていた。その派手な赤毛に、直接の面識はないが、話に聞いていた男だと理解する。
 カポ・デルサルトは普段通りの馴れ馴れしさで、部屋に入ってきた俺に片手を上げてみせる。
「忙しいところ呼び出して悪かったな」
「いいえ、ボスのご命令ならば、同衾の最中でも駆けつけますよ」
「イタリア人がそれはいただけないぞ、ベルナルド」
 俺のボスとの軽口の間も、赤毛はいかにも生意気そうな目つきで俺を見ていた。あの頃は、イヴァンとよく似ていたと思う。言えば、二人とも否定するだろうが。
 本来は役員の重役になるはずだったボンボンが、幹部候補になるとは聞いていた。紹介したい男、というのはそれだったかと納得する。
「近いうちに幹部に上がる、ベルナルドだ。お前の儀式の時は顔を合わせてないだろうが、名前は聞いたことあるな?」
 ボスはポン、と赤毛の背を叩き、俺の前に赤毛を立たせた。
「ベルナルド・オルトラーニだ」
 彼は俺の差し出した手を掴んだかと思うと、上から下まで俺を値踏みするように見てから鼻で笑った。
「モヤシみてえな男だな。どうやって幹部候補になんてなったんだ?」
 散々聞き飽きていた決まり文句だったので、若輩から投げかけられた事を考慮しても何の感慨も抱かない。簡単な握手を交わし、カポ・デルサルトを横目で見ると目が合い、ボスがこの子供の前に俺を呼んだ本心を察する。
「ボス」
 念の為、カポ・デルサルトに声を掛けると、片目をすがめられた。合図だと分かったが、気乗りはしない。
「……肉体労働は専門外ですよ」
「元軍人がなに言ってやがる」
 ボスは簡単に笑ってみせるので、ため息を吐く。赤毛のガキは状況を把握出来ずに、ボスを怪訝に見ているだけだ。
 自分より体格の良い赤毛は、完全に俺を舐め切っている。ボスの期待に応えるのは容易いだろう。
 もう一度ため息を吐いた。
 面倒事は嫌いだったが、仕事と割り切ると真っ直ぐ赤毛の目を見て命令した。
「――膝をつけ」
 数秒の沈黙があったが、赤毛は気圧される様子もなく、目を細めて挑発的な声音で返事する。
「断ったら?」
 恐らくこの男は、ボスや他の幹部、明確な目上にはこんな態度は取らないはずだが、この危うさは死を招きかねない。だから、俺が呼ばれたのだ。
「ストリート・チャイルドなら、即座に理解するんだがな」
 呆れ顔のまま、さっきしたばかりの握手と同じ動作で、入れられて日の浅いタトゥの刻まれた右手を取った。身構えたのを無視して手前に引き、手首を捻るのとほぼ同時に体重の乗った軸足を払った。
 派手な音を立て、膝どころか倒れ伏した男の背中に捩じ上げた腕を押し付け、子供に教え込む。
「いつまでも、坊っちゃんのつもりか?」
 呻き声がしたが、表情を作るのもやめて吐き捨てた。
「金持ちのプライドを捨てられないなら、せめて流れ弾で死ぬような間抜けな事にならないよう、頭を低くしてるんだな」
 意外と吠えないな、と思ったが、胸を背中から押さえつけているから当然だった。仕方なくボスに視線を投げる。
「ボス、ペットの躾にわざわざ呼び出したんですか」
「ただのペットだったら、今ごろトーニオの杖で叩き殺されてるさ」
 ボスが短く手を挙げたので頷いた。腕を解いてやると、立ち上がらないまま赤毛は、俺を睨みつけていた。
 咳き込んではいたが、ギラギラした目つきは、頭からプライドを折られた男の顔ではない。
 無意識に、羨ましい、と思った。妬ましいとも。
 コーサ・ノストラと呼ばれるのは、本来ならばこういう男なのだろう。
「ルキーノ、話は以上だ。もう行け」
 カポ・アレッサンドロは普段は余り表に出さないボスの声音で言い、ルキーノはもうそれ以上俺には目もくれずにボスに頭を下げると部屋を出ていった。
 重い扉が閉まるのを待ってから、ボスは深いため息を零し、椅子に座り直す。
「あいつの父親に世話になった人間が多くてな。俺や幹部がしちまうと、薬が効きすぎる」
 半分納得し、半分隠された真意に肩を竦めた。
「どちらかというと、カポや幹部が釘を刺しては、あの男が周囲に潰される原因になりかねないからでしょう? その点、幹部候補でしかない俺なら都合がいい」
 ボスはくつくつと喉の奥で笑いながら、俺に椅子を勧めた。
「拗ねるか?」
「私はそんな子供に見えますか?」
 正面に座った俺に、ボスは隠すこともなく頷く。
「拾った時は、猜疑心の塊だったからな」
 それを言われてしまえば、俺から返せる言葉はなく、苦笑するしかない。
「名前は、ルキーノ……でしたか?」
 話題をそらすと、ああ、とボスは答えた。
「ルキーノ・グレゴレッティだ」
 今しがた、彼の消えた扉に視線をやりながら、ボスはどこか遠くを見るように目を細める。
「面倒見ろとまでは言わんが、気にしてやってくれ」
 ボスは俺がジャンを弟分に、と言い出した時と似た顔をしていて、ドキリとする。
「あいつの前なら、お前は大人でいられそうだろう?」
 けれど、手を組み、下から俺を伺うように見せた表情は、一変して悪戯を思いついた子供のそれで呆れた。
「……上手いこと言ったつもりでしょうが、厄介事を押しつけたいだけでしょう」
「お前も俺のことを大分理解してきたな」
 ボスは鼻歌でも歌い出しそうな機嫌の良さで足を組み直すと、テーブルに置かれたシガーケースから葉巻を勧めてくる。
「死なせたくないんですね、あの子供を」
 受け取った葉巻をカットし、アルコールランプで炙り火をつける。それをボスに差し出してから、自分も同じように火をつけた。
「ああ。大事な息子だ」
 甘い煙を天井に吐きながら、ボスは呟く。
 ジャンのことを知らされた夜を思い出して、思考が停止しかけた。
「……一瞬、また隠し子かと思いましたよ」
「まあ、あと二、三人だったらどこから出てきても不思議じゃないが」
 ひどく危うい軽口を叩く、ボスの顔を思わず見返してしまう。
「睨むなよ」
 そう言いながらも楽しげにしているボスから視線を外した。
「嘘だって」
 縋るような声音は、おいたをした時のジャンに似ていて、思わず笑い出しそうになるが、それを噛み殺して言う。
「カヴァッリ幹部に報告しておきますから」
「……いらんところまで成長しやがって」
 むくれてそっぽを向いたボスの横顔に、今度こそ小さく笑って、さっき虐めてしまった子供のことを考えた。
 自分とは違い、人を惹きつける容姿にあの気概だ。
 将来、あの男が幹部に上がれば、間違いなく組の看板役を請け負うことになる。
 彼が幹部候補になったいきさつは耳にしていた。イタリア系の名家でありながら、商売に失敗し……望まずして、足を踏み入れた。望まざる立場は同じなのに、まるで違う場所にいる気がした。
「ルキーノ、か……」
 ポツリと俺が呟いたのを、ボスがどんな目で見ていたのかは、思い出せないままだった。




1-2

 さきほどの二度に渡る爆音で野次馬が集まり出しているのを尻目に、通り一つ先の屋台で新聞を買った。
「悠長だなあ、あんた」
「読んでる途中に邪魔されたからな」
 屋台の店番をしていた少年にバッファローを手渡して新聞を受取りながら言うと、舌打ちが届く。少し虐めすぎたかと反省してルキーノの背中を軽く叩いた。
「とりあえず、本部に戻るぞ」
 顔を見ると、ルキーノは機嫌を悪くしていたわけではないようだった。
「そうだな。ブロック向こうでタクシー拾うか」
 ズカズカと大股に歩き始めたルキーノの背を追い、狭い路地に入ると、俺がついてきているか確認するようにちらりと後ろを見たルキーノが笑う。
「デートみたいだな」
 人が気を使った端から能天気にルキーノが言うので睨みつけると、色男は肩を竦めた。こういうところを見ると、本当にアレッサンドロ顧問の隠し子じゃないかと思う時がある。
「休暇を潰されて喜ぶと思ってるのか、お前は」
「俺とのデートを楽しみにしてくれてたのか?」
「もう歳だぞ、俺は。こういう目に合うなら、二度とゴメンだ」
「そう言うなよ」
 ふっと笑ったルキーノは命を狙われている状況で、俺の一歩前を本当に散歩でもしているかのように歩き続けている。
「本当に嬉しそうだなお前……」
 心から溢れた本音に、ルキーノはもう一度ちらりと俺を一瞥した。
「呆れてるか?」
「いつまでも若いなと思ってるだけだ」
「そういう事言ってるから、頭の中から老け込むんだ」
 ほら、とルキーノは手を差し出した。
「誰も見てない」
 返事も躊躇も面に出す前に、無遠慮なその手は俺の手を掴む。女とするように指を絡められ、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「若いっていうより、まだ子供か」
「あんたはいつまでも俺を子供扱いだからな。利用することにした」
 一回りくらいデカイ掌から、じわと体温が伝わる。春先の風はまだ冷たい気がしたが、だからこそ、その手は心地よかった。絆されているな、と思う。
「たまに休みがこうやって被っても、部屋に引きこもって終わりだろ? せめてこんな風に散歩くらいには出ようぜ。ただでさえ、あんたは週の半分以上が籠城仕事なんだ」
 体格がそう違わない筈の俺を完璧にエスコートしてみせる男は、振り向かないまま小言を並べる。世話焼きのお節介は、部下にも俺にも、昔から一緒らしかった。
「……こういう状況じゃなかったらな」
「悪かったよ」
 ようやくルキーノは、多少申し訳なさそうな顔を見せた。虐めるのはこの辺にしておこうかと思ったが、咄嗟にルキーノの手を引き返した。
「ん?」
 大通りの一歩手前で、シィ、と指を立ててみせると、ルキーノも気付く。
 脇に抱えていた新聞を開き、赤煉瓦の壁に背を付けて紙面を眺める振りをしながら、通りの方を伺った。
 明らかに堅気じゃない人間が一人、キョロキョロと辺りを警戒している。
「お前を探してるんだな。目立つ赤毛にその風貌だ」
 ルキーノが舌打ちをし、元来た道に向き直った。
「別のルート探すか?」
「そうだな……」
 様子を伺っていた男が、くるりとこちらを向く。それとなく頭を引っ込めて、今度は俺がルキーノの腕を引いた。
「おい」
 文句を無視して、数フィート離れただけの細く薄暗い路地にルキーノを押し込める。
 もう一度、今引き返した通りに視線を向けると、予想通りルキーノを探している男が顔を出した。
 仕方なく自分も同じ路地に入り、羽織っていたコートをルキーノの頭を隠す形に被せる。
「少し屈め」
 状況にようやく気づいたらしいルキーノは、大人しく俺の言うことを聞き壁を背に身体を折った。
 念の為に自分の眼鏡を外し、ルキーノに手渡す。
 ルキーノは一瞬戸惑ったが、眼鏡を掛けた。それを確認してから壁に手をつく。これで傍目には、外でいちゃつく頭のゆるいカップルに見えるだろう。殆ど抱き合った状態になると、ルキーノの付けているムスクが濃く香った。
「……かわいいな、ルッキーニ」
 気分を出すために適当を抜かすと、ルキーノはぎょっとした顔を見せる。至近距離とはいえ、眼鏡のない滲んだ視界で細部まで見えないのが惜しい気がした。
「カッツォ……」
 ルキーノが屈辱に塗れた声を漏らすものだから、余計に楽しくなる。
 壁に押し付け、女のように扱ったところで、ルキーノは隠しようもないほど男で、余計にこの体勢とルキーノの嫌がる表情にそそられる。
「男に組み敷かれるのはそんなに嫌か」
「あんたじゃなかったら蹴り倒してるな」
 再び舌打ちをしたルキーノが、コートの隙間から手を伸ばして俺の頬をぺちぺちと叩いた。
「嬉しそうなツラしてんなあ」
「実際楽しいからな」
 当然のことを指摘する男の額にキスをすると、ますます表情を曇らせるのが可愛かった。
「あんたは、昔からそういう奴だよ」
 コートで髪を隠しながら、ルキーノは心底うんざりした顔でぼやく。
「お前も大概、古い話を根に持つタイプだな」
「あんたのがうつったんだ。責任取れよ」
「責任、ね。……そうだな、俺と再婚するか?」
 絶対に返事できないだろう問いかけをすると、案の定ルキーノは言葉を詰まらせる。
「冗談だ」
 人の気配が近づいてきて、お互い曖昧な笑みを交わす。
 無言で腕を引かれたので、表情を見せないようにルキーノを抱き締めた。




0-2

 板張りの床の上を歩くと、ゴツゴツと派手な足音がした。
「久しぶりだな、ルキーノ」
 名前を呼ぶと、以前見たときより伸びた髪を括った赤毛の男がこちらを見る。ドアを開ける音にも、俺たちの足音にも気づかなかったとは、随分無用心だとも思ったが、今は黙っていた。
 出窓に腰掛けた青年は俺の顔を見るなり、食卓に苦手な料理が並べられた子供と同じ顔をする。
「そんな露骨に嫌そうにするな」
「わざとだよ」
 床に降り、舌打ちしながらルキーノは言った。
「フハハ、プライドの高い人間は生きるのが大変だな」
 ラグを引き連れて部屋に入ると、もう一度ルキーノは舌打ちを床に吐く。
「クソナード」
 ボソリとルキーノが呟いた言葉に、ラグが小さく笑うのが聞こえた。
 俺自身も、いまだに噛み付いてくるルキーノの子供っぽさが気に入っていた。ジャンといい、俺の目には、恐れを知らない人間が眩しく映るのかもしれない。
「何か言ったか?」
 とぼけて知らない振りをしながら、床に転がっている男の頭を足で転がした。顔面は血に濡れ、側頭部は砕けていたが、見覚えのある顔だ。何も問題はない。
「何も言ってないですよ、隊長」
 ルキーノの口から初めて敬称で呼ばれ、今度こそ声を漏らして笑ってしまった。
「ベルナルドでいい」
 踏んでいた頭を蹴ると、ゴトリと重い音がした。
「うちの隊に所属させるわけでもないしな。お前は最初から幹部候補で、俺とそう立場は違わない」
 汚れた靴を床に擦ると、ルキーノに向き直る。
「まあ口の利き方が悪ければ、教育するけどな?」
「……クソナード」
 性懲りもない青年の頭を一発叩き、ラグに声を掛けた。
「あとは頼むぞ」
 転がっている死体と部屋の間取りを確認しながら、必要費用だか人出を指折り数えていたラグは俺に向き直って答える。
「はい。お任せ下さい」
 返事もそこそこに鞄を開き、中から死体を詰める道具や掃除用の器具を取り出し始めたのを尻目に、まだ転がった死体を見つめているルキーノの背中を叩いた。
「後は掃除屋の仕事だ。帰るぞ、ルキーノ」
「ああ」
 きちんと返事をし、ルキーノは俺の後をついて来たが、ドアの前で立ち止まり彼の手元に視線をやった。
「ルキーノ」
 気づいていないかもしれないと、名前を呼ぶと、ルキーノは俺の目を見てから握ったままだった銃の安全装置を戻し、懐に収める。それを確認して扉を開けた。
「大丈夫だ」
 ぽつりと背後から聞こえてきた言葉は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
 本来なら、殺し慣れた人間しかタトゥは刻まない。けれどこの男は例外で、ほんの数ヶ月前までは、堅気の世界に生きていた。
 すぐに死体や血の臭い、人殺しの感触に慣れろと言う方が無理な話だろう。いずれ、慣れ親しまなければならないのだとしても。
 安いアパートメントの階段を降り、すぐ隣に停めてあったフォードの運転席を開けた。
「どうした、乗れ」
 車の前で立ち止まってるルキーノを促すと、助手席に身体を滑り込ませたのを確認してから自分も乗り込む。
「あんた、運転手は?」
 ルキーノは愚問を投げかけたので、エンジンだけ掛けながら答えた。
「最近は人出不足でね」
 不安そうに俺の顔を見るものだから、笑ってしまいそうになった。年下の、クソガキという意味でなく、歳相応の青年の顔がある。
「今日は朝から働き詰めでな。少し休憩に付き合え」
 懐から煙草を取り出しルキーノに差し出すと、俺の顔と手元を見比べてから、シガーケースから一本抜き取った。指が震えているのが見えたが、見ないふりをした。
「目立つ男は大変だな」
 自分も同じ煙草を口に咥え、独り言のように呟く。
「俺は、言われたシノギに励んでただけだぞ」
 まだ、この世界での自分の武器の使い方を今一歩理解していない男は、陰鬱とした表情でぼやく。
 きっと表の世界で生きていた頃には、上手く自分の華やかさを使ってきたのだろう。その自信を見れば分かる。
 だから、ほんの少しでも背中を押してやれば、俺よりもよっぽど重用される幹部になるだろう予感がした。
「……子供の再教育は、時間外手当でも貰いたいもんだ」
 思わず口をついた言葉に、ルキーノはピクリと反応して煙と共に吐き捨てる。
「だったら行員にでもなればよかったんだ。あんた、大学出てるんだろ」
 それは確かに自分が憧れてた未来だった。
 銀行員かなにか安定した職について、なんの変哲もない女性と普通の家庭を作り、子を成し――そんな生活を望んで、大学に入る為に軍隊に、そうしてそこからずるずると間違えていってしまった、もはや辿り着きようもない未来。
「なんだよ」
 俺の無言にルキーノが声を上げたので、ひどく性格の悪い笑みを浮かべていたのだと思う。
「一流大学を出たお前こそ、どうしてこんなところにいるんだ? 細君を養うためだけか?」
 ルキーノが息を飲むのを聞いた。
 心から望んで、この血反吐より沈んだ色の闇に生きようなんて奴は、きっといない。
「……あんたもなのか」
 そう指摘されたが、無駄なプライドから首を横に振り答える。
「これからのコーサ・ノストラには、俺みたいなのも必要なんだよ。それだけだ」
 きっとそのセリフにルキーノは納得していないだろうが、今はそれでよかった。
「きっと、お前みたいなのもな」
 取ってつけたように言ってみたものの、慰めにもならないのでそれ以上は何も言わなかった。
「ベルナルド、もういい」
 シートに深く身体を沈めたルキーノの手の震えは、確かに止まっていた。返事はせずに、サイドブレーキを戻す。
「……あんたは見た目も中身も嘘ばかりだよ、クソナード」
 悔し気に漏らされた声は、可愛らしいものだったが、車を走らせる前にとりあえず一発殴っておいた。




1-3

 至近距離で身体を寄せ合ったまま、数分が過ぎた。通りの様子を伺っている俺のネクタイを、ルキーノが引く。
「そろそろ行ったんじゃないのか?」
「ああ。腰は大丈夫か?」
 身長を誤魔化すために不自然な体勢になっているルキーノを気遣うと、鼻で笑われた。
「この程度でどうにかなるかよ。あんたじゃあるまいし」
 皮肉を返す元気のある男に頷いて、手を差し出す。
「ほら、眼鏡返せ」
「ん」
 ひょいと眼鏡を外したルキーノが、差し出した俺の手は無視して直接顔に眼鏡を掛けてくる。座りの悪い眼鏡の位置を直そうとしたが、それより早くルキーノが俺の腕を引いた。
「俺はこっちの方がしっくりくるぜ?」
 体勢を入れ替えられ、背中が壁に押し付けられる。
 ずれた眼鏡でルキーノを見上げると、頭を撫でられた。
「その髪型、似合うな」
「女みたいでか?」
「つっかかるなよ」
 俺の三つ編みを撫でながら、ルキーノはひどく優しげに微笑むものだから、俺は何だか居心地が悪くなってしまう。何も言えずにルキーノが飽きるのを待っていると、その手は顔の輪郭を辿り始めた。
「こうやってると、あんたに手を出したのを思い出すな」
 目を細めてしみじみと言うルキーノはさっき昔の話をしていたせいか、また古い話を持ち出す。
「酔った勢いでやったやつか?」
「まあムショから出た後も仕事詰めで、女日照りだったからなあ」
 ルキーノは彼の覚えている最初の話を口にしながら、俺の腰から尻に手を這わす。
「……お前、まさかこんなところでしでかす気じゃないだろうな?」
 分かりやすい反応をするほど若くもなかったが、指をバラバラに動かしながら下から上へと移動する手の動きに、苦笑せざるえない。
「むしろこの状態で何もしない方がありえないだろ」
「この状態で殺されたら目も当てられないぞ」
「そうだなあ」
 そうしてルキーノは、手だけでなく唇で俺の耳元を息と濡れた体温でなぞり始める。
「こら、ルキーノ……」
「だって、なあ……状況が面白すぎるだろ。あんたとやっちまった時も思ったが、いつかあんたのことをぶん殴ってやろうと思ってたんだぜ?」
 今度は、俺が昔の話を思い出す番だった。
「……殴っただろ、実際」
「なんだ、それ」
 覚えていないことは知っていて言ったので、ルキーノが俺の首元に顔を埋めている隙に口元だけで笑った。
「……あんた卑怯だよな」
「今更だな」
 ぐいっと肩を両手で押されて身体を離されて、強い色の目で見据えられる。
「そういうところが、嫌いだったんだ」
「それはお互い様だ。多分な」
「……そうかよ」
 興が削がれた、といった顔をして顔をそらしたたルキーノがなんだか可笑しくなってしまって、手を伸ばす。頬を包んでこちらを向かせたが、視線は明後日の方向だ。その子供っぽさに微笑んで、顔を近づけた。
「――ン」
 ちゅ、と一度軽い音を立てたけれど、ルキーノはいじけたままだ。
 きっとルキーノが扱っている娼婦と変わらないだろうとどこかで思いながら、扉をこじ開けようと二度、三度と唇を重ねる。
「気乗りしないんじゃなかったのか」
「逃げられると追いかけたくなるのが、男ってもんだろ」
「まあな」
 とん、と背中が再び冷えた壁に押し付けられた。
 上から覆い被せられるように口に噛み付かれ、本当に喰われるんじゃないかと錯覚する。
「っ、ふ……ぅ、」
 無理に呼吸をしようとすると、唇からぎこちなく息が漏れる。僅かな苦しさが気持ちよくて、ねだるようにルキーノの舌先を甘噛みした。
「…………あんた、キス好きだよなあ」
 唇が離れ、忍び笑いをする口ぶりで頬を撫でた指先が耳に触れ、くすぐったさに身を捩る。
「自分は関係ないってか?」
「バレてるか、やっぱり」
 慣れた仕草で顎を持ち上げられ、今度こそ逃げられないように唇を奪われる。元々、駆け引き以上に逃げるつもりはなかったが。
 角度と強さを変えて貪られ、耳に届く水音に溺れている錯覚をする。ルキーノもまた、獣のようなキスを好いていた。
「ん――っ、ァ……」
 顎を掴んでいた親指が、唇をなぞって口の端から侵入する。分厚い舌と指先の両方で嬲られていると、酸素の足りない頭が考える事を放棄しそうになった。
「っふぁ……ルキーノ…、がっつきすぎだ」
 ぺたりと頬を押しやり小さく叱ったが、ルキーノは少しも気にせずに俺のベルトに手を掛ける。片手で器用に下着ごと俺のズボンを下ろしたルキーノは、膝の上でベルトを締め直して俺の足を拘束した。何かあったら俺を担いで逃げてくれるとでも言うのだろうか。まあ、こいつなら真顔で当たり前だ、くらい言い出しそうだが。
「まさか真昼間から野外でセックスしてるような男が、マフィアの大幹部サマとは思わねえだろ?」
 露になった尻を揉みしだきながら言う男に、くすぐったさに身を捩りながら呆れる。
「……相手はお前より上位だしな?」
 ルキーノは無言で頷く。この状況に興奮しているのは、お互い様だった。いい大人が、どうしようもない。
「尻、こっちに向けろよ。支えておいてやるから」
 頷き、言われるまま壁に手をつくと、自由にならない足でどうにか下半身をルキーノに預ける。
「便所にしろ、セックスにしろ、ペニス出してる時が一番殺されやすいって言うのになあ」
「ああ、だからさっさと終わらせようぜ?」
 俺の独り言を拾い上げたルキーノは、楽しそうに微笑み俺の尻を撫で回す。
「お前、早漏だったか?」
「抜かせ。痛いからやめろって音を上げるのは、いつもあんたの方だろ」
 無意味に楽しそうな声で言うルキーノから視線をそらし、自分の腕にため息を吐く。途端に、尻に何か液体を掛けられて、びくりと腰が動いてしまった。
 もう一度ルキーノの方を見れば、どこからか取り出した小瓶の中身を涼しい顔で俺の尻に垂らしているところだった。
「用意が無駄にいい、な」
 ルキーノの体温の移った生温いとろりとしたそれは、恐らくオリーブオイルか何かの潤滑油だろう。
「あの部屋へは、あんたを犯すつもりで行ったからな」
「ケダモノめ……」
 ルキーノは瓶の蓋を閉め、丁寧にハンカチに包んでポケットに戻しながら答える。
「そういう俺が好きなんだろ?」
 無駄なドヤ顔さらした男の顔を、殴るか何かしてやりたかったが、この体勢ではどうしようもない。
「どこからその自信が湧いてくるんだ」
「もう黙っとけ。舌噛むぞ」
 ぬめった指が、大した抵抗もなく自分の身体の奥に差し入れられていって息を飲む。それで、下らない会話は終わりだった。
「…ン――、っふ」
 オイルを塗りこむ手馴れた動きで簡単に開かれる感触に、容易に熱を持ち始める。
 前には触らずに、つぷつぷと動かされる指が一本、二本と増やされていく。それだけで壁に付いた手が震えてくる。
「声、出さないのか?」
「カヴォロ……状況考えろ」
「ああ、急ぐんだったな」
 たった一言で、解された場所を確認されるようにぐっと両手で尻を開かれる。羞恥心を感じるより早くガチガチのペニスが押し付けられて、息を飲んだ。
「は、ッ……ぅ、う…」
 普段よりゆっくりと熱を帯びたナイフに切り開かれるような感触に、壁に爪を立てた。塗り込められたオイルのせいで、ぐぷぐぷと飲み込む感覚が、やたら生々しく脳を焼く。
「っは…、ひ、ぁ……」
 壁についた手に、ルキーノの手が重ねられる。気まぐれにその指に唇をつけてキスをし、舌を這わせると、自分の奥に入り込んでいるペニスがドクリと心臓のように揺れ、背が震えた。
「も……いい」
「――ん」
 短い返事と共に少しずつ引き抜かれ、自分の中身が失せていくような感覚に震えながら目を閉じる。
「ベルナルド……もっと、触ってくれ」
 手の甲を握り締められ、ルキーノもまた上から俺の指を舐めた。
 節を甘噛みされ、それだけで達しそうになるのを堪えて、キスでお互いの肌を溶かし合うような愛撫をお互いの指に落とす。
「あ……ふ、ぁ…ア……」
 背中にルキーノの身体が覆いかぶさっている。布越しの熱と至近距離の吐息、まだゆっくりとしか動かされない肉の塊に焦らされて、イくギリギリを往復される。思考が溶け出しそうになり、息を乱してルキーノの指に噛み付いた。
「足りないか……?」
 耳に直接閉じ込めるように囁かれ、ただ首を縦に振る。
「左手、壁に肘つけろ……そうだ」
 言われるまま立ち位置をずらすと、右手を拾い上げられた。意図を読みかねていると、ルキーノは俺の耳元にキスを繰り返しながら、重ねた手ごと俺のペニスを握る。
「ァ…く、ぅ……」
 無自覚に先走りを零していたものを自慰をさせられるように握り込まれ、膨れ上がった皮膚の上を他人に操られた自分の指がぬるりと辿る奇妙な感覚に膝が折れそうになった。
「で……る、から」
 縋るように言い、握らされた手で抵抗すると、ルキーノは耳元で笑う。
「まだイクなよ。あんたが感じてるのを見たいんだ」
「違う……こえ、が」
 そこまで言うと、ピタリとルキーノの手が止まり、腰を両手で押さえ込まれる。怪訝にそちらを見ようとすると、一気に最奥を貫かれ、呼吸が止まった。
「ッ――、ひ、ぅ…ァ、あ」
 ビクビクと腹が震える。体液で汚れてしまった手では、自分の口も押さえられず、噛み殺せない声が漏れた。ルキーノを何とか睨みつけると、男はニィっと笑ってみせる。
「あんたが我慢してる表情、最高に唆るな」
「ふ、ぁ……っ、ルキー、ノ」
 いたぶるように奥を細かく突かれ、壁に付いた腕でなんとか声を押さえつけた。
「見つ、かる……」
 殆ど泣き出しそうになりながら縋ると、くちりとルキーノの口が俺の耳を齧る。
「口、抑えててやるから……自分で前弄れよ」
 この状況で提示された交換条件にルキーノを蹴り倒したくなったが、最初に乗ったのは自分の方だ。
「…………あとで覚えてろ」
 負け惜しみにしか聞こえないだろうセリフを吐くと、耳元でルキーノが笑ったのが分かった。
 羞恥に顔に血が上るのを自覚しながら、立ち上がったままの自分のペニスに指を絡める。
「は……ぁ…、……」
 ルキーノの手に強制されるものではなく、自分の意思で扱いている事実が、状況と相まって異常な興奮を呼ぶ。
「く……、はは……締まった」
 嬉しそうな声に奥歯を噛むが、前立腺を抉るように中で動かされて声と共に唾液が顎を伝った。
「ふぁ……っふぅ………も、たのむ、から…」
 腰を捻り背後に訴えかけると、流石に満足したらしいルキーノは俺の眉間に唇を落とす。
「――口、開けろ」
「……ァ…ん、ぅ……」
 言われるまま、緩く口を開くと一度下唇を啄まれ、浮いた涙で滲んだ視界の中でルキーノが微笑んだと思うと先ほどより深く口づけられる。気が緩んだ瞬間に再び奥を貫かれ、膝が折れそうになった。
「――っ! ……んぅう、ぅっ」
 瞑った目の端から、涙が溢れる。
「……ン、は…ベルナルド」
 わずかに唇が離れ、切羽詰った声で名前を呼ばれて薄く目を開いた。
「ルキ……ノ、あ…、ぁッ」
 ルキーノの中に堪えきれない喘ぎ声を吐き出しながら、愛しい男がイク顔を見て、嗜虐心が刺激され口元で笑っていたと思う。
 俺もまた、尻に熱をぶちまけられているのを感じながら、地面に精液を吐き出していた。




0-3

 ガクン、と顎を支えていた肘が滑った。
 つかの間の休息から叩き落とされたが、寝直す訳にもいかず眉間を押さえた。
 何故かシーリングファンが止まっている。事務所の中はヤニで汚された空気が澱んでいたが、窓を開けるわけにもいかず、ため息を吐いた。
 汗ばんだ手が、無意識に書類の一枚を掴む。
 それは名簿だった。幾つかの名前は、横線で書き潰されている。
 日に日に、その線は増えていく。文字通り、墓標だ。
 盤上の駒の残りは少ない。
 ジリジリと焦げていく導線をどこで切り捨てるのか、そんな重要な役回りをする立場ではないのに、この手にはそのための刃物が握られていた。押し付けられたといってもいい。いつだって、俺は肝心なところで立ち回りをしくじる。
 カーテンの隙間から、デイバンの夜を見た。
 狭い路地の奥に、繁華街の灯りがチラチラと漏れている。安酒に酔った瞬きは、イミテーションの宝石のようで俺を苛立たせた。
 俺がため息の上に舌打ちを重ねる前に、室内に中を伺うようなノック音が響く。
「なんだ」
 振り返り返事をするとドアが開き、俺の下に付けられたばかりのジョバンニが顔を覗かせた。
「隊長……、グレゴレッティ隊の者が」
 名前を聞いた瞬間に、偏頭痛が蘇ったような気がする。眉間を抑え、数秒黙考してから、寝起きで乱れていた髪を軽く整えた。
「通せ」
 自分が口にした一言が、ひどく重苦しく響く。
 一礼して再びドアを開けたジョバンニが、男を二人、部屋に招き入れた。
「失礼致します、ドン・オルトラーニ」
 最初に頭を下げた銀髪は、時折ルキーノの代わりに書類や請求書を提出に来ていたので、見覚えがあった。確か名前はピアッジとか言った筈だ。
「用件は?」
 ピアッジとその後ろにいる赤毛の顔を交互に見る。
 後ろにいる男は、ルキーノと一緒にいるのを時折見たことがあった。改めて正面から見ると、赤毛といい、目付きといい、少しルキーノに似ている。
「隊長に、会わせてください」
「今は駄目だ」
 俺のにべもない言葉に、ルキーノに少し似た青年は隠しもせずに俺を睨みつけた。
 似ているのは、風貌だけではないらしい。
「何かしようなんて思うなよ」
 以前ルキーノと煙草を分けあったシガーケースを開き、中に一本だけ残っていた紙巻きを口に咥えながら言った。
「……何がですか」
 声を詰まらせる青年に幼さを見て、口元に笑みが浮かぶ。
「今、余計な事をすれば、ルキーノを死なせる事になる」
「ッ、そんな――あなたに、隊長の何が――」
「ジャン!」
 今にも俺の首元に噛み付きそうな青年を諌めたピアッジの声に、心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。珍しい名前でもない、と動揺を表情には上げずに、視線を床に落とす。
「ルキーノを同情しろと?」
「私から謝罪します。申し訳ありません」
 声音に滲んでしまった苛立ちに、ピアッジが頭を下げる。まだ、赤毛の方は噛み付きたそうにしていたが、オメルタに縛られてその場を動けないでいた。
「そっちに人数が足りてないだろう。うちのを何人か回す。工面できるのは二、三人だが」
 話をそらすと、ピアッジもわずかに険しかった表情を緩め頷く。
「助かります。では、俺たちはこれで」
 まだ何か言いたそうな赤毛の腕を引いて、ピアッジは逃げるように部屋を出ようとする。
「隊長を――お願いします」
 一言だけ言い残し、ジャンと呼ばれた赤毛を部屋の外に押し出すようにして、ピアッジは部屋を出ていく。その後ろ姿を、ジョバンニが不安げに見ていた。
 以前ジョバンニは、別の隊に昔馴染がいると言っていたが、それが彼らだったのかもしれない。
「心配か」
「いえ……、はい」
 俺が問い掛けると、躊躇をみせたがジョバンニは申し訳なさそうに頭を下げた。
「俺は、説明が足りないか?」
 躊躇してから、ジョバンニが首を横に振る。
「確かに、納得は出来ないと思います。でも隊長の立場が誰であれ、これ以上庇う方法はないと思います」
「そうか」
 アスピリンより安い気休めの言葉に、それでも安堵している自分がいた。
 いつだって己の采配を一番信用出来ないでいるのは、他の何者でもなく自分自身だった。
「暫く休みたい。席を外し――いや、お前も少し休憩を取れ、ジョバンニ」
 まだ半分以上残った煙草を、隙間ないほど詰まった灰皿に無理矢理ねじ込み部下に休みを促す。
「はい、ありがとうございます。隊長も少し横になってください」
 人の身ばかり気づかって部屋を後にしたジョバンニの顔も、こころなしかやつれてみえた。当然だ。この戦争の如何では自分たちの首もまとめて飛ぶのだから。
 一人きりに戻った部屋の中で、眼鏡を外してヤニ臭い手で視界を塞ぎ、深々とため息をつく。
 指の隙間から、奥の部屋に続く扉を見た。
 休憩を取るのなら、そこに行くべきではないと分かっていても自然と足が動く。ポケットに無造作にいれたままだった鍵を取り出し、カチリと解錠して扉を開いた。
 今までいた部屋より、さらに空気は重苦しく、変に甘ったるい臭いがする。ライト一つだけの薄暗い部屋の床に、蠢く人影があった。
「少しはマシになったか?」
 この部屋に閉じ込めた時に身体検査をしたにも関わらず、どこかに隠し持っていたらしい白い包み紙と一緒になって横になっている男を見下ろす。
「……外はどうなってる」
 掠れた声が返された。どうやらまだ意識は死んでいないらしい。
「最悪のままだ」
 ありのままを答えると、ずるりと人影は上半身を起こした。
 解けてバラバラに彼の顔に影を落とす赤毛も、無精髭がまばらに散る頬の痩けた顔も、以前とかけ離れていても確かにルキーノのものだ。
「俺を……させてくれ――、銃を撃つだけなら、ガキにだって出来る。そうだろ?」
「今なにを言ってるのか自覚出来てるか。ガキ以下だろ今のお前のザマは」
 この抗争のさなかで妻子を亡くしたルキーノは、コーサ・ノストラとして血の復讐すらなすことも許されず、逃げるように売り物に手を出した。いや、プレッシャーに潰されかけながら、プライドから折れることの出来ない男は、それより前から落ちかけていたのかもしれないが。
 俺は弱さを隠しきれないルキーノにとって、それは当然の帰結に思えたが、ヤク中にありがちな末路を辿らせるわけにはいかなかった。
 代わりは、もういくらもいない。
 この抗争を生き延びても、その後を自死するしかない組織では意味がない。これ以上幹部がすげ変わっては示しがつかないのだ。例え、妻子と同じ所に行くのが、ルキーノの本心だとしても。
「薬を抜け。それまで外にも人前にも出せん」
 転がっている薬包を足で寄せ、ルキーノのすぐ側に立つ。
 見上げてきた男の目は、初めて会った時のような強がりは失せ、丸裸のままだった。
「あの子達の為に死ぬ事も出来ないのか、俺は」
 今にも泣き出しそうな顔で笑う男を、苦々しい思いで見た。
 細君と娘、それから僅かばかり遺された、彼自身の名誉を守って死ぬのが、彼にとっての幸福か?
 ――手を伸ばせば、指が届きそうだ。と、思った。
 高い空にあったはずの夕星は、今や足元に石ころと同格に転がっている。
 拾い上げて空に還すのが、本来俺に期待された仕事なのだろう。いや、俺がほの暗い感情を抱くことも、あの人は計算しているに違いなかった。結果が同じなら、あの人には支障はない。
 まったく、ひどい話だ。誰が、とは言わないが――。
「…………それは本当に、お前の家族の為か」
 決定的な事を口にした瞬間、ルキーノはいとも簡単に俺に手を出した。
 殴られるのには慣れていたので、身体が浮いて壁にぶつかった事にも驚かなかった。吹っ飛んだ眼鏡も割れてはいないだろう。
 汚れるのも構わず、鼻から流れた血をスーツの袖で拭って立ち上がる。俺を殴ったルキーノの方がこの世の終わりを迎えたといった顔をしていた。
「……分かっただろう」
 どれだけ言い繕おうと、きっと人は最後の一線だけは他人を使ったり出来ない。
 それはただの持論だったが、どうやらルキーノにも正しかった。どこかでこの男の弱さは、俺と似ていた。
 肩で息をしていた男はその場に膝を折り、顔を覆い呻く。
 ルキーノが泣き出す前に、俺はその側に屈んだ。
「触るな」
 今にも血を吐きそうな声を無視して、触れるとびくりと普段とは打って変わって小さく見える肩が震える。
「触らないでくれ――」
 本当ならば、ルキーノの言葉の通り、触れないのが正しいのだろう。けれど、生にしがみついてもらわないといけなかった。
 男には、簡単な方法がある。
「目を閉じてろ」
 トン、とそのまま肩を押した。
「お前は軽蔑するかもしれんが、慰め方なら知ってる」
 言って、起き上がれない男のベルトのバックルを弾く。
「ベルナルド……意味、が」
 自分の膝の近くに落ちていた薬包を破り、中に残っていた白い粉を自分の舌に乗せると唇を重ねた。
「――、…ン……」
 口移しでルキーノに殆どを流し込み、彼の喉が動くのを確認してから唇を離す。
「メシも喉を通らない。眠りもこない。だったら、こっちを満たしてやるくらいしか出来ないからな」
 掠れた声を無視して、ジッパーを下ろすと中からルキーノの萎えた性器を引き出した。
 自分も僅かばかり体内に薬をいれてしまったせいか、頭の奥がクラクラする。量が足りないせいか悪酔いのような、焦らされるような不快な感覚だった。
「……ぁ、う…」
 まだ柔らかい肉の塊を、唾液を溜めた口の中に導く。ルキーノの腰がビクリと浮いて、徐々に口内のものが硬度を持ち始めた。
 殴られてなお、男のモノを咥えようとするなんて、昔のようだと思う。それだけで胸の奥に嫌悪感が蘇るが、それでも、いや、だからこそ自分にはお似合いだと思えた。
「ン、ぅ……っふ……」
 ぐちゅ、とわざと耳に届く水音をたてながら絞り上げると、濃い雄の臭いが鼻をつく。この部屋に閉じ込められてから、数日風呂にも入っていなかったからだろう。吐き気を堪え、喉奥まで咥え込み竿を舌で扱けば、頭上から呻き声が溢れた。
「ッふ、ぷァ……――ハハ、……男ってのは単純で嫌になるな? 死ぬ気も失せるだろ」
 条件反射で自らも勃っていることに自嘲し、ルキーノを見上げる。
「あんた、こっちだった、のか?」
「……さあな」
 そう思われることに嫌悪して、視線を外した。
 俺は、ルキーノやボスや――ジャンのようには生きられない。醜く、浅ましく、命を繋ぐ方法しか知らない。
「なあ、こっちを使え」
 下着とスラックスを脱ぎ捨て、ルキーノの上に乗っかる。
「ベルナルド……」
 酒焼けした掠れた声で名前を呼ばれると、心臓に棘が刺さったような気がした。
「俺の名前じゃなくていい。俺は、いないと思え」
 そう言うと、理由もなく泣きそうになる。
「使われるのは慣れてる」
 憎んだ過去だったが、そのおかげでこうやって誰かを繋ぎ止めることが出来る。その皮肉に、自嘲しか出ない。
 ……どうしてそこまでして、この生意気な男を助けようとしているのか、よく分からなかった。
 いつか、この男がジャンの助けになると思ったせいかもしれないし、それ以外の何かかもしれないが……何故だか触れてはいけない思いな気がして、俺はそれ以上考えるのをやめた。
「……、――」
 薄闇の中でさらに暗く見える瞳孔の開いた瞳は、自分の中にある暗闇そのものに似ていて見ていられなくなった。そっと瞼に口づけを落とし、ただ生理的な反応で立ち上がったルキーノのペニスを手で支えて腰を下ろした。
「ン、っく…………、図体と同じに、無駄にデカいな……」
 無理矢理笑うが、古い記憶に薄く火が点き、膝が震える。
「は…、う……」
 もたもたしていると、腕を掴まれてギクリとした。
 だが、予想したより柔らかく抱き寄せられ、尻を掴まれる。そのまま、半ば入っていたものが、ゆっくりと押し挿れられた。
「――ぅ、あ、…ア……」
 割り開かれる感覚に、ルキーノの胸のシャツを掴んで耐えると、慈しむように頬に口づけられる。涙の浮いた目でルキーノの顔を見ると、虚ろな目が、きっと何も見ていなかった。俺を見ていたように思えたのは、気のせいだ。
「ルキーノ、ルキ……、……もう、きこえないか?」
 聞こえないでいてくれと願って呟く。
「お前は……そんな顔でオンナを抱くんだな」
 口ではそう言ったものの、きっと違うだろうと思った。それでも両手でルキーノの顔に触れ、無意味に唇を重ねる。
 先のない、何も生み出さない、俺にお似合いのキスだった。
 ルキーノは虚ろに口づけを受け入れ、本能に動かされるようにゆるゆると腰を動かし始める。
「っァ……、んぅ」
 さっきまで勃っていた自分のペニスは萎え、下から突かれる度に子供のそれのように揺れた。
 まるで、自分が慰められているようじゃないか。いや、自分の為に、ルキーノを利用していた。きっと。
「……は、ぁ……すまない、ルキーノ」
 ルキーノのシャツを握ったまま、届かない言葉を零すと中に射精されるのを感じる。
「っん――、ルキ……ふぁ…」
 自分は精を吐きださないまま、その感触に擬似的に達してしまった気がした。
 ごぷりと繋がったままの場所から、生温い液体が溢れた。




1-4

 出すもの出したら何もかもどうでもよくなるというのが、男の良いところでも悪いところでもあるように思えた。――嘘だ。どう考えても良くはない。
「流石に移動しないとな」
 やることやったあとに俺を正面から抱き直していたルキーノも、頭が冷静になってきたらしくそう言った。
「……怠い」
「はいはい」
 呆れながらも、恋人にするようにルキーノは俺の額に口づける。ハンカチで汚れを拭って、服を元通りに合わせてくれる男の所作を見ながら、いや、正真正銘恋人だったか、と思い直す。
「ん……っ」
 内股を伝う白濁をルキーノは指で拭い、ちらっと俺に視線をくれてからべろりと分厚い舌で舐めとって見せる。
「まだ物足りないとか言う気じゃないだろうな」
 気怠るさそのままにぼやくと、当然といった顔でルキーノは答えた。
「この程度で満足すると思ってるのか?」
 その顔を見ていると、中に出されなかっただけ良かったんじゃないかとさえ思える。俺も随分毒されたものだ。
「…………帰ったらな」
 自分としてはありえないほどの譲歩だったが、ルキーノは不満げに舌打ちした。
「嘘つけ。本部に戻って大人しく私室に引っ込む男だったら、俺もここまでがっついたりしねえよ」
 普段の自分の行いを考えれば、ルキーノのリアクションは当然のものかもしれないが、はっきり言われると心外でもあった。
「あとは自分でやる」
「いいから最後までやらせろよ」
 俺の言葉を遮って、ルキーノは手早く俺の服の乱れをなかったことにしていく。
 それが心地よくて、結局されるがままになってしまった。今朝、ラグに「猫にも甘えろ」と言われたことを思い出す。
「昔から、聞きたかったんだが」
 既に下半身の汚れを取り去って、俺のタイを締め直し始めたルキーノが、視線を合わせないまま口を開く。
「うん?」
 ぼんやりした頭のままで答えると、ルキーノは俺の目を盗み見た気がした。
「あんた、どうしてあの時、俺を殺さなかったんだ」
「……突然どうした?」
「ん、いや……昔、こんなことがあっただろ?」
 ルキーノの呟きに、一瞬、初めてルキーノに抱かれたことを――いや、レイプしたことか……を、思い出して視線を落とす。
「初対面での薬が効きすぎてたか?」
 誤魔化すように言うと、そうだな、と返事が帰ってくる。
「感情で采配を変えるような奴とは思ってなかったんでね」
「今もそう思ってるのか?」
「いいや。あんたは私情でしか動かねえよ」
「フハハ」
 口角を上げたルキーノに、俺も笑い返して……そうして、何を言ったらいいのか分からなくなる。
「……だからこそ、あの時どうして生かされたんだろうな」
 ルキーノは、半ば独り言のように囁いた。
 いや、正しく独り言なのだろうと思う。何年も答えてやらなかったのだから、今更俺から答えがもらえるとは思っていないだろう。
 なら、どうして今ここでルキーノは問いかけてきているのか。
「知ってどうする。自分の期待する答えじゃなかったら、落胆するだけだろう」
 恐らく完璧な形にされているタイの結び目に指をやって、そこにあるルキーノの指に触れる。
「落胆するような理由なのか?」
 迷いなく指を絡められるが、やはり理由は保身から言えなかった。
「お前にはその価値があったからだろ。選択権は、俺にあったわけじゃない。殺せと言わていたら、それまでだった」
 半分の真実を差し出して、けれどルキーノは首を横に振った。
「でも、助けてくれたのはあんただ」
「俺は恩の押し売りが得意なんでね。お前みたいな義理堅い人間を扱うには、それが一番効率的だ」
「なあ……自分の家族に優しいことは、なにもそこまで恥ずべきことじゃないだろう」
 それは、誇るべき言葉ではあった。けれどどうしても、居心地が悪く返事が出来ずに苦笑してしまう。
「どうしてあんたは、必要以上に感情を律するんだ?」
 胸ポケットに刺されていたタイピンを自分で付け直しながら目を伏せる。
「珍しく踏み込むな」
「考えるところがあるんだよ、俺にも」
 言うべき言葉に迷い、けれど結局口を閉じると、ルキーノはため息をついた。
「……まあ、いい。いこう、ベルナルド」
 そう言って差し出された手を、何故だか今は弾いて逃げ出したい気分だった。




1-5

 路地をうろうろと野良犬のように歩き回る青年は、写真の男を連れてくるか殺すことが出来れば、当分食うのに困らない程度の金を提示されていた。
“長身、赤毛、右頬に大きな傷”
 探してこいと命令された写真の男の印象は、その目立つ風貌よりなにより、まるでこの世に怖いものなど何一つないといった顔から強く焼き付けられた。
 青年は自分が人を殺さないと生きていけないことに、自ら落ちぶれた自分には一切の非はなく、むしろこの街が悪いと思った。その街を形作るマフィアの一人をどうにかするくらい、むしろ自分は良いことをしていると酔うことが出来た。
 一緒に追っていた何人かは、何かの爆発に巻き込まれて死んだらしいが、青年はそのことを分け前が増えた程度にしか思っていない。大仕事を無事終えることが出来ると、根拠もなく信じていた。そうやって、ギャングの下っ端まで落ちぶれた事実は忘れて。
 無作為に径を歩いていくと、不自然な場所に長髪の男が立っているのに気付いた。
 誰かと待ち合わせをしているのか、壁を背に新聞を脇に挟んでいる男は、時折腕時計を気にしている。
 それだけなら、彼はそこを立ち去っていただろう。けれど長髪の男が、足元をヒョコヒョコと歩いていた鴉にまるで話しかけるようにしていたのが気になった。
 最初、薬中かとも思った。だが、長髪の男が鴉を見たまま浮かべた薄い微笑みを目にした瞬間、青年に怖気が走った。
 体温を一切感じさせない異様な笑みに、その男が堅気の世界に住む人間でないと理解する。
 青年は、ごくりと生唾を飲んだ。命令された“赤毛の男”を待っているのではないか、と思った。確かに長髪の男は眼鏡に遮られた目付きこそヤクザ者のそれだったが、厳ついわけでもなく、腕をひねり上げれば折れそうな体躯をしている。
 一歩、青年は男に歩み寄った。相手が気付いた様子はなく、悠然と煙草に火をつける。ただの運転手なのかもしれない。きっとそうだ、と青年は自分に言い聞かせ、男の前まで歩みを進めた。
 煙草を咥えた男は、そこでようやく自分に向かって歩いてきた青年に気付いたようだった。
「……何か用かな?」
 足元に止まっていた鴉は、飛び去らずに首を傾げ青年を見る。
「あんた、マフィアの人間か」
 青年のスペイン訛りがキツイ言葉に、長髪の男はゆっくりと煙を吐きながら目を細めた。
「それに答える人間がいると思ってるのか、小僧?」
 小馬鹿にするような冷たい言葉に、ぐ、と青年の喉が鳴る。
「俺は赤毛の男を探してる。右頬に傷がある男だ」
 躊躇いを見せてしまったものの、青年はチンピラらしくベルトに差してあったジャックナイフを突きつけながら男を恫喝した。
「あんたが待ってるのも、そいつじゃないのか?」
 手入れがされた様子もない、いかにも切れ味の悪そうなナイフに、隠しもせずに眉間にしわを寄せ、唾棄するように口を開く。
「答える義理はないが……」
 煙草を吐き捨て、その火を踏み潰したまま言う。
「幾らもらった?」
 長髪の男は、射抜くような視線を今度こそ青年に向けた。
 青年は本能的に、身動き一つ取れなくなる。代わりに、カチリと金属が噛み合う音が耳に届いた。
 目の前の男はゆっくりと視線を外し、代わりに青年の背後に向かって呟く。
「死んで使える金はないのにな」
 彼の後頭部にキスしていた銃口が鉛玉を吐き出し、青年の頭は砕けた。銃声に鴉が飛び去ったが、その姿を青年には確認できなかっただろう。ただ、その身体は投げ捨てられた人形のようにぐしゃりと地面に潰れた。
 銃を撃った男は死体を一瞥しただけで、長髪の男に歩み寄る。
 目立つ赤毛に、右頬に傷。――青年が探していた男だった。
「どうして自分の銃を抜かなかった」
「お前が連れてきた面倒事だろう?」
「そうだが……」
 じわりと罅の入った石畳に、鮮血が染みて黒く滲む。高価な靴が汚れに浸るのも無視して、長髪の男が赤毛の男に歩み寄る。
 魔法のような動作で、銃をホルダーから抜きながら。
 自分の眉間に向けられた銃口にも、赤毛は動じずにただ立っていた。
 表情を一切変えない男の顔を見ながら、長髪の男は静かに目を伏せるように笑う。伸ばした手を傾け、赤毛の男の肩越しにたった一発、発砲した。
 赤毛の男の背後で、側頭部を削ぎ落された誰かが、身体を半回転させて崩れ落ちる。
「こんなひと山幾らかの屑、デコイに決まってる。お前の背後狙ってる奴を掃除するには、コレが一番効率的だろ?」
 まだ白煙を上げている銃を握ったまま、彼は赤毛を抱き寄せた。




0-4

 鳴る端から電話を受けながら、書類の山を崩していく中で、ふとデスクの前に男が立っているのに気付いた。
 数日前に仕事に復帰したばかりのルキーノが、書類を片手に唇だけで出直すかと問いかけている。何だか、ひどく懐かしい光景のように思えた。
 受話器の向こうの客人に断りを入れてから受話器を抑えて答える。
「少し待てるか?」
 そう言うと、ルキーノは俺の仕事を気づかって無言のまま頷き、接待用のソファのあるあたりに引っ込んだ。近くの机で帳簿のファイリングを進めていたジョバンニに目配せをしたが、それより早くザネリがコーヒーを運んでくるところだったので、顔を見合わせて微かに笑いあった。
 十数分かかって一段落した電話を切ると、受話器を押さえ続けていた肩を回しながらルキーノの正面に座る。
「待たせたな。少しは落ち着いたか」
「さあな」
 コーヒーを啜りながらルキーノはそっけなく言い、俺に請求書の束を差し出す。
「まあ、その傷が塞がるのは時間がかかるだろう」
 言いながら、だから時間は残酷だとも思う。その濁流は容易に痛みも記憶も飲み込む。
「何もかも分かったみたいに言うな、あんたは」
「気に障るか?」
 ザネリが俺にも新しいコーヒーを運んできたので、受け取った請求書を眺めながら俺もカップに口をつけた。
「多少は」
「何もかもは分からんさ。経験したことだけだ」
 手の中の紙面からは目を離さずに簡単に答え、面倒を掛けられた仕返しに一つだけちくりと刺しておく。
「お前と同じとは言わないけどな。俺は薬に逃げるほど、分かりやすい馬鹿でもない」
「あんたなあ……」
 部下には聞こえないように呟いた小声に、ルキーノは文句を言いかけ、やめた。
「……確かに、あんたは俺より立派なコーサ・ノストラの男だよ」
 自分には程遠そうな言葉を投げかけられ、苦笑するしかなかった。
「何かねだりごとか?」
「茶化すな」
 そんなつもりはなかったのに、と肩をすくめる。
 きっと俺がいなくても、お前は誰かに助けられてここに戻ってこれた可能性には口を噤んで、代わりにこの組織に縛り付けられるように言う。
「お前は大丈夫だよ」
 俺は嘘をつく。
「もう、大丈夫だ」
 二重に重ね、真実を封殺した。哀れな羊が、一人きりで逃げないように。
「これからも頼むよ、グレゴレッティ幹部」
「――俺は、死にぞこなっただけだ」
 俺を真っ直ぐに見据えたままの癖に、ルキーノは底無しにネガティブな言葉を口にした。
「死にたいか?」
 簡単な問いかけに、ルキーノは答えなかった。
 教師の答えを待つ生徒のようにじっと俺の目を見ていた。縋る相手を間違えているとは言わなかった。
「ここにいれば、普通に生きているよりは早く迎えが来る。そう思えば、多少は楽になる」
 俺も、こいつも、泥に汚されている。けれどそれは同じではない。
 それを同じだと勘違いさせ、同情を誘って、結局のところ俺は家族すらも利用しようとしている。
 誇りだなんだといっても、人が一番大切にするべきものを――したかったものを守れなかった人間の、最後の足掻きでしかない。ヤクザものの言う、それは。浅ましく、見苦しい。
「……だから、あんたはここにいるのか」
「どう思う?」
 ふっと笑うと、ルキーノは頭を振った。
「あんたの考えることは、一つも理解出来ん」
 疑いを残しながらも俺に頼るしかなかった男は、納得しないまでもそれで矛先を収めた。
 煙草を咥えた男を追い払うように、掌を振る。
「もう行け、ルキーノ。お前の部下はいい男揃いだ。これ以上心配かけると、愛想つかされるぞ」
 あの噛み付いてきたルキーノの“ジャン”の剣幕を思い出した。
「そうかもな」
 何か思うところあったのか、ルキーノは苦笑いをして立ち上がる。
「大事にしてやれ」
「あんたに言われるまでもねえよ」
 そう言ったルキーノの顔は、薬に溺れる前に戻ったように見えた。もちろん、二度と戻れないことは、頭では分かっていたが。
「ああ、ちょっと待て、ルキーノ」
 踵を返し部屋を出ていこうとしたルキーノを呼び止める。
「これ、持ってけ」
 振り返ったルキーノの手の中に、今しがた受け取った請求書の内の何枚かを押し付ける。
「経費外だ」
 にこやかに言った俺に、男は項垂れた。
「……あんたやっぱり、行員にでもなれよ」
 ぼやいてルキーノは部屋を出ていく。
 きっと、もう大丈夫だ――それは、俺自身にも呪いのように刻まれた気がした。




1-6

「相変わらず、隠し事が多いな」
 転がった二体の死体を見下ろしながら、ルキーノは呆れたように言った。
「お前達に不利益が働くような嘘をついたことはないが?」
「俺は、あんたが自分をそこにカウントするようになって欲しいけどな」
 ルキーノは何でもない顔で銃を自分の懐に収める。それを見て、自分もホルスターに銃を戻した。
「移動するか」
 当面の不安が無くなった通りを指さすと、ルキーノはもう一度死体を見やる。
「大丈夫なのか、これ」
「ああ、問題ない。そろそろ時間だ」
 死体の隠蔽は一つもせずに歩き始めると、後からルキーノもついてきたようだった。腕時計を確認すると、予定の時間までもう数分もない。
 状況を理解出来ていない男に説明する時間ももったいなかったので、そのままヘリング通りを抜け、頭に叩き込んでいる公衆電話の場所まで早足に歩く。
 雇っている浮浪児が俺の姿を見つけて駆け寄って来たので頭を撫でると、ルキーノが居心地悪そうにしていた。きっと、まだ思うところがあるのだろう。
 真面目に仕事をしていた彼に小遣い代わりにダイムを手渡していると、予定通り電話が鳴り始めた。
「時間通りだな、ザネリ」
 持ち上げた受話器に向かって、相手も確認せずに言う。
「あんな派手な狼煙上げられたんじゃ、間違いようがありませんよ。車を港まで回しますから、早いところ戻って下さい。ジョバンニが各所への電話対応で死に体です」
 執務室の様子を想像してジョバンニには代休だな、と笑った。
「ああ、掃除屋の手配を。それと念の為に迎えには、護衛をつけてくれ」
「既に手配済みですよ。それと、今回の件はグレゴレッティ隊の今期予算から引く方向でよろしいですか?」
 仕事の早いザネリの言葉に、ルキーノの顔を伺う。ルキーノはこちらの話は聞かないように配慮しているのか、煙草を吹かしたままこちらには気づいていないようだった。
「そうだな。まあ、流石に半額くらいで手を打っておいてやろう」
 ルキーノが笑っている俺に気づいて、伺うようにこちらを見ていたが何でもないと首を振る。
「了解です。一応、言っておきますが、ご自分の立場を考えて下さい。――ご無事で何よりです」
 電話の向こう側で、ザネリが小さくため息をついたのが聞こえた。
「――一応、悪かった。ジョバンニにはもう少し踏ん張ってくれと伝えてくれ。ありがとう、ザネリ」
 今度は、相手が数秒黙り込む。
「……、帰り道に雨が降りますね。護衛には傘も持たせておきますよ。ずぶ濡れで帰ってこられても、着替えてる時間はありませんから」
 用事が済んだとばかりに切れた受話器を見つめ、ふっと息を漏らした。
 受話器を置き見上げれば、曇の多いデイバンには珍しく晴れ晴れとした空が広がっていた。、
「本当に隠し事だらけだな、あんた」
 いつの間にか真横に立っていたルキーノが言い、じとっとした目で責められる。ルキーノにさっきまで距離を置いていた浮浪児が、俺が電話している間に距離が縮まっているのが可笑しかった。
「さて、移動しようか。迎えが来る」
「どこに?」
 今度は場所をきっちり聞いてきたルキーノに、海の方を指さす。
「港だ。ロックフォートの手前に小さいやつがあるだろ」
「ああ、あそこか」
 顎に手を置いて頷くと、今度はルキーノが先を歩きその後を俺が追うことになった。
「息切れしてるぞ。普段から少し運動したらどうだ」
 ここまでに結構な距離を移動してきているにも関わらず、涼しい顔をしているルキーノの方が俺から見れば異常に思えたが、大股で歩いている男は俺に気づかって歩みを緩める気はないようだ。
「休日にお前と一緒に走れとでも言うつもりか?」
「あんたが付いてこれるわけないから、言わねえよ。入隊試験どうやってパスしたんだか」
「俺も覚えてないな」
「おいおい」
 馬鹿話をしてる間に、ルキーノが立ち止まる。建物が開け、デイバンの海が見えた。桟橋が幾つかあるだけの、港と言うには小規模すぎるそこは、人目を避けるには丁度良い。
 あとはそこで待っていればいいだけだったが、ルキーノは堤防を上り、桟橋の方へ降りていく。
「ルキーノ!」
「いいだろ、ちょっとくらい。仕事以外で来たのは、俺も久しぶりなんだ」
 子供みたいなことを言う男に呆れながらその背中を追うと、段差のところで待っていたルキーノに手を貸される。必要なかったがルキーノの手で桟橋に降り、海の方に歩いた。
「散々な一日だ」
 海風に嬲られる髪を押さえながら呟くと、ルキーノが俺を横目で見てから水平線に視線をやる。
「でも、良い風だろ」
 そう言われても、俺には生臭い風だとしか思えなくて苦笑する。頓挫してしまった休日は、このあと更に後始末が残っていた。
 うんざりとした気分で、口を開く。
「代打のデートの日取りなら今受け付けてやるぞ? 全部、お前の財布から出るならだが」
 驚いた顔を見せたルキーノは、ほんの少し考え事をしたような空白の後に、ため息をつく。
「本心は?」
「次に休日被るのは、年明けの可能性もあるってだけだ」
 自分が思ったよりそっけない声が出て、どうやらルキーノが言うところのデートをそれなりに楽しみにしていたらしい自分に気付いた。子供っぽいのは今は自分の方らしいが、ルキーノは気づいていないだろうから黙っていた。
「あんたはもっと休めよ」
「あと二、三年したらな」
「その頃には、またあと二年、あと五年とか言うんだろうよ」
 様式美のようなやりとりをルキーノは楽しそうにしていたが、ふと、声のトーンを落とす。
「なあ、お互い引退したら、二人でどっかに――旅行とか、どうだ」
 今度は俺がルキーノの顔を見る番だった。
「――なんだ、それ」
 意図を読めずに聞き返すと、ルキーノも俺の顔を改めて見る。
「代打のデートの約束を聞いてくれるんだろう?」
 微笑んだルキーノに見つめられると、見せたくない心まで見透かされた気がしてギクリとした。
 俺から再び視線を外し、遠くを見るルキーノは出会った頃よりなお遠くにいるように感じられる。
「旅行じゃなくたっていいんだ。未来の話がしたかった、あんたと」
 目を細めたルキーノは、歌うように言う。
「もう何年も考えたことがなかった。明日よりもっと先の、もしもあるかもしれない先の話なんて。あの時、いや、今日もだな――死ななくて俺は良かったよ」
 プロポーズのような言葉に、ようやく、ルキーノがもう遠い昔に旅立ってしまった船と繋がっていた紙テープを手放せたのだと分かった。
 ずっとそうするべきだと思っていたけれど、そうなったと分かった端から壊したいような気持ちになった。何処まで行っても、俺は成長しない。卑屈な性質は死ぬまで変わらないのだろう。
 これが子供が独立する時の親の気持ちなのかとも思ったが、こんな子供は勘弁願いたい。似たような事を、ラグが言っていたのを思い出した。
「……やっぱり、お前は眩しいな」
 呟いて、シガーケースを取り出す。咥えた煙草には、ライターが海風に煽られて中々火がつかず、ルキーノがジッポを取り出し差し出した。
「今度はあんたが逃げるか?」
「そう見えるか?」
「今すぐにでも、死にたそうなツラしてる」
 指摘は正しくて、ルキーノにつけられた煙草をふかしながらその場から消えてなくなりたかった。長く忘れていたが、ジャンやルキーノと出会う前までは毎日だって思っていた。
 今日は昔のことばかり思い出す。それは自分がルキーノに言った通り、俺も随分と歳をとったのかもしれない。
「さっき聞いたな。どうしてお前を生かしたのかを」
 だから、関係を壊してでも、この胸に溢れた不快感を排除したくなった。
「心中相手を探してた」
 自嘲して、呆然としているルキーノを見た。
「あの時、したいようにやらせてやれば、お前は血は浴びても誇りを失わない、上等な死に方をしただろう?」
「……どうだろうな」
 ルキーノは俺を見つめたまま、首を横に振る。けれどそれを遮ってあの頃ずっと思っていたことを口にした。
「お前みたいなのを貶めて汚して嘲笑ってやれば、泥濘の中で野垂れ死ぬ時に、このクソみたいな俺の人生が報われるかと思ったんだ」
 本心を並べ立てれば、どうしようもないクズの自分は死ぬに値するように思えた。
「呆れ果てるほどの根暗だな、あんた」
「そうだろ」
 もう、ルキーノの顔は見れなかった。どこに行きたいのか、なんに為りたいのかと考えかけて、ルキーノの言う通り、単純に死にたいのだと気付いた。
 違うのはここだ。このラインだ。
 明確に俺と目の前の男を分けるのは、この波止場に引かれた白線に似ていた。分たれたボーダーライン。いつまでも飛び越える勇気は俺には持てない。
「だから、生きる約束は受けられないって?」
 ルキーノの声音は呆れているようだった。
「だから俺と寝たのか。そうやって、自分に言い訳して?」
 ――足元から地面が消失した、と思ったのは一瞬だった。なんの事はない、ルキーノは俺を抱き上げただけだった。いわゆる、お姫様抱っこのかたちに。
「…………何やってるんだ」
「見りゃ分かるだろ。どうでもいいが、軽いなあんた。ちゃんとメシ食えっていつも言ってるだろ」
 ルキーノは女だったら喜んで股を開くだろう優雅さでウィンクした。そしてそのまま、踵を鳴らして波止場の先に歩み出す。
「おい、ルキーノ?!」
「舌噛むぞ。口閉じてろ」
 最後は殆ど走っていたと思う。
 馬鹿みたいな光景だった。
 くわえたままだった煙草は途中で取り落とし、ふわ、と重力が一瞬失せたと思った瞬間には、海面に叩きつけられた。
「――……ぷぁ!」
 水面から顔を出すと、同じように水濡れになったルキーノが手を差し出していたので、状況をいまいち理解できないまま掴む。
「……本気で死ぬ気かと思ったぞ」
「こんな浅瀬で死ねるか。本当にそっちがいいなら、次は運河に飛び込んでやるよ」
 ニッ、と口角を上げてみせるルキーノは、濡れ鼠になっても腹が立つほどの色男だった。
「ほら、ちゃんと立て。頭は冷えただろう?」
 掴まれた手を引き上げられると、言われた通り確かに足はつく。
 急激な変化についていけずにどこかぼんやりとルキーノの顔を見ていると、彼は濡れた髪を撫で付けながら言った。
「ジャンがいる。ジュリオなんか危なっかしくて、独りにしておけないしな。イヴァンもまだ面倒掛けやがる。死ぬのはあいつらを独り立ちさせてからでも遅くないと思わないか?」
 下手糞な慰めだかよく分からない言葉を聞きながら、胸ポケットからシガーケースを引っ張り出して開けると、当然中身はぐっしゃりと海水に沈んでいて眉を顰めた。
「煙草が台無しだ。銃も時計もオーバーホールだぞ。請求書に書き足しておいてやる」
 中身をその場にひっくり返すと、紙巻きとシガリロが波間に沈むのを見ていたルキーノが笑った。
「天国には全部持ち込み禁止なんだろうよ」
「行けると思ってるのか?」
 深い緑に濁った海は夏を手前にして生温く、服が張り付くばかりで決して心地のいいものではなかった。抱き上げられた時に解けてしまっただろう髪もじっとりと重かった。
 ルキーノも同じ風体だったが、不快さはまるで感じていないといった表情で、鮮やかに笑っている。
「イヴァンにサインさせるんだろ。あの人格詐欺してる文字だったら、聖ペテロも騙せるかもしれん」
 いつだかの会話を思い出して、俺もまた自然と笑っていた。
 そうだろう? と問いかけるような言葉は、聞くものに騙されてもいいと思わせる強さがあった。だから、彼はひどく脆そうな心を持ってなお、人を惹きつけてやまないのだろう。
 いや、だからこそ、か。
 それこそ死んでも、本人には言ってやらないが。
「確かに、巣立ち前の天使サマと、世話の掛かるクソガキが三人もいるんじゃ、まだ死んでる暇はなさそうだ」
 前向きな諦めを口にすると、ルキーノは分かりやすく安堵を表情に乗せる。
「――もっと良いの贈ってやるよ。時間はまだある」
 俺の預かっている時計の意味を知らないルキーノは、そう言った。
 時間はある、か――と空を仰いだ。
 俺の未来は何の感慨もなく明日、唐突に切って落とされるのかもしれない。……それでいいと思う。
 幕切れの手をとってくれると、その言葉でようやく生きていいと思えるのだから、どうしようもない人間だ。
 ジャンたちと脱獄した日の事を思い出した。恐怖を押し殺した先に、開かれた扉の奥でみた朝日を。
 いま、目の前にある光景によく似ていた。
 帰ったらルキーノに、この時計の話をしよう、とふいに思った。
「……――時間が勿体ないと思わないか、ルキーノ」
 俺の思いつきの言葉に、ルキーノが振り返る。
「ああ? じゃあ、歩いて帰るか?」
 ザバザバと派手な水音をたてながら歩み寄ってきた男に、告げた。
「勿体ないから、キスでもしよう」
 俺の言葉に、たてがみを濡らした獅子にも似た男は、唖然としている。
 眩しい光を背負ったルキーノの指先から落ちる滴が、色鮮やかに輝いて見えた。それに触れたいと思って、指を伸ばす。
 その手に触れていられるのなら、この胸に穿たれた抗いようもない罪悪感を、今日が終わり、何もかも消えたその先で捨て去っていいのだろうと思えた。
 ルキーノに触れる前に逆に髪をまた撫で付けられ、欲しかった指先が頬を掠め押し倒される。背中から水中に沈んで、くるりと反転した世界で水泡が弾けた。 白く白く、青をまとった、赤が瞬く。
 ずっと憎んでいた、デイバンの夜に似ていた。けれど、苦しくはない。
 遠く響くクラクションの音を聞きながら、馬鹿みたいなシチュエーションで口づけした。 
 ――このまま駆け落ちでもしてみたいと、ありえないほど頭の悪い思いつきに浸りながら。