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無音

 その様子から彼は、朝に玉座についたきり、その場から一歩たりと動いていなかったようだった。
 机から幾重にも溢れて溢れる電線の波を、忘却の川に例えたのはうちのカポだったか、などと薄ぼんやりと思う。その源流で肩に受話器を挟んだまま、器用にタイプライターを叩いている男の傍らには、中身が冷めてしまってるのがひと目でわかるコーヒーのカップと、皿に取り分けられているのに食べかけで忘れ去られているであろうサンドイッチ。
 ため息ひとつで俺の憤りが伝わるはずもないので、こちらに気づいてなお電話を優先している男に何を言うでもなく手を伸ばす。
 俺の動きだけは見張るように伺っていた視線を躱して、渇いたサンドイッチを摘んで食べた。当然味は損なわれてしまっている。俺が自覚するほど表情を曇らせると、目の前の男は言葉と声だけは仕事中そのままに、口元だけで苦笑する。
 そっと横目で背後を伺うと、側のデスクにいるベルナルドの部下は帳簿と領収書に何か書き付けていてこちらには注意を払っていないようで、視線を戻すと分厚いグラス越しのグリーンの瞳とぶつかる。
 に、と笑ってみせた。経験則だろう、瞬間的に表情を凍らせたベルナルドのこめかみに音を立てずにキスを送り、仕事中だった声音がコンマ何秒か不自然に途絶えた。
 鉄壁をほんの少しでも崩せたことに、喉から声を漏らすと睨みつけられたが、メシはちゃんと摂るという約束を破ったのはそっちが先だろうと思ったので、空になった皿の上に領収書を乗せてやる。
 ベルナルドはパンくずの上に置かれた紙束と俺の顔を見比べて肩を竦め、相手の話を聞く無言の隙間で唇だけで愛を囁いて見せた。
 面食らった俺に得意げに男は笑って、そのささやかな攻防戦は終わる。
 もうこちらを見ずに仕事モードに戻った恋人に呆れつつも、まあこういう立場ある人間がやるには馬鹿馬鹿しすぎるやりとりに、無駄な満足感を得ていた。