紡がれない物語
愛のある風景がそこにある。
カスタードまみれになったフォークと食べかけのタルトが倒れたままの皿に、ベルナルドの指がかかりそうになっていたので、拾い上げた。指の主は眠たそうな瞼を持ち上げて、俺の顔と自分の手元を見比べて、状況を了承したらしく小さく「サンクス」と呟いて手を引っ込めた。
最近は弱くなったと控え気味にしか飲まないベルナルドが、今日ばかりは勧められるままグラスを干していて、まるで夜中に父親の帰りを待っている子供のような面持ちだった。四十まであとひとつを手前にした男を捕まえていう台詞でもないが。
俺たちはいつものようにヴィアンカネーベで飲んでいた。
記念日だったり、特別なことがあったりすると、幹部四人とジャンとでここで年甲斐もなくハメを外すのが、すっかり恒例になってから何年か経っている。
「上で寝るか? 今日は空いてるぞ」
店の二階部分では仮眠を取れるベッドがあって、よくジャンがそこを使っていたが、今日は主役のベルナルドに付き合ってぐだぐだに飲んでいるうちにイヴァンやジュリオと一緒にソファで潰れていた。まるで仲のいい三人兄弟のように。三人共三十過ぎの男たちだったが、俺たち――なんだか年長者のように振る舞ってしまう俺とベルナルドにとっては三人はいつまでも子供のように見えた。
「いや――」
ベルナルドは何かをいいかけて、フルートグラスを手に取った。すっかり気の抜けたシャンパンが、それでも美しい金色に輝いている。
「終わらすには惜しいな。少し」
明日には三十九歳になる、マフィアの男が言うには女々しすぎる台詞を、それでも茶化す気にはなれずに苦笑した。背中には優しい寝息の三重奏。食べかけのカスタードのフルーツタルト。家族の用意してくれた、金色のシャンパン。ウィスキーにチョコレート。お菓子の家の夢のようだ。
紙巻きを無言で勧めると、ベルナルドは口で受け取った。ロンソンのライターを灯す。そういえば、趣味は合わない癖にこのライターだけはなぜか揃いになっていたのを火をつけてやりながら思った。
こうやって隣に座っていることがこの数年で増えた。
もっとも、俺がこちら側の世界に足を踏み入れてから、ずっとベルナルドは隣にいたような気もする。うとましくも頼りにしていた上役は、いまでは家族であり友人だった。そういう意味で、隣にしているのはやはりジャンが俺たちの中心になってからな気はした。
ベルナルドはまじまじと指に挟んだ紙巻きを眺めて、俺の視線に気づいてなぜか焦ったようにそれを咥え直した。
この男がよくわからない理由で挙動不審になっているのはよくあることだったのでさほど気にもせず、同じものに俺も火をつけた。
「良い男だな、お前は」
ぽつりと、ベルナルドはそんなことを口にした。酔っているのだろうと思った。
「あんたでも見惚れるほどか?」
いつものように「そうだろう」とでも答えればよかったのかもしれない。俺はきっと間違えてしまったのだろうし、俺以上にベルナルドは間違えた。酔っていたのだろう。
「そうかもな」
ベルナルドの目の前で潰れて死んでいるカスタードのタルトのように、甘く柔らかな声だった。アーシーな薫りに、それでもその言葉を吐いているのは横に座った男のものに聞き違いようがなかった。
俺は吸いかけの煙を少し吐いた。
それから立ち止まったベルナルドが、今一歩を踏み込んでくるかを聞いていたが、酔に任せて友人が俺の肩にしなだれかかってくるようなことはなかった。
アルコールに紅潮した頬に、昔より色がくすんで見えるグリーンの髪が掛かっている。眼鏡で隠している、思いの外きつい印象の目尻には、瞬きに合わせて皺が刻まれていた。
いつか男からそういう感情を向けられた時のような、嫌悪はなかった。
ただ、ああそうなのか、と思った。ベルナルドの、言葉の通りに。
きっと踏み越えるのは簡単だった。間違えればいい。そもそも間違いではないのかもしれない。この気難しい男は、こんな日でもなかったら口を滑らせることも出来なかっただろう。ひどく愛おしい失敗に思えた。
完全無欠に振る舞う筆頭幹部は、そうやって時々詰めが甘い。ジャンも、イヴァンもジュリオも知っていた。俺も、もちろん。
「もうすこしだけ」
ベルナルドはただそれだけ言って、顔をそむけたそうに傾けた。
俺が間違えさせるのはそれこそあまりにも簡単だったが、ただ肩を並べて同じ紙巻きを吸い終わるまでそうしていた。
誕生日でなかったのなら、キスを贈ることも簡単だったように思えた。