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ずっと優しい

「おかえり、ルキーノ」
 と、彼は笑顔で俺を迎え入れた。
 ジャラリと彼が鎖の音を引きずってベッドから立ち上がると、その膝の上から沢山の書類がこぼれ落ちて床に散らばった。
「座ってろ」
 そういうと、一瞬きょとんとした彼は視線を下げてから諦めたようにまたベッドの淵に座る。
「今日も出しては貰えないのか?」
 戯言を言ったので、まるでペットの犬にするように俺とはまた違うくせ毛を撫でる。
「あんたが口を開いたら、今すぐにでも」
 返ってきたため息、失笑に、手を上げそうになった。
 振り上げた拳を透き通ったグリーンの瞳がじいっと責めるように見ている。震えた手をそのまま下ろすと、彼は「気が済むなら殴ってもいい」と聞き飽きた言葉を吐いた。
「メシ……、買ってきた」
 聞いていないふりをして、そいつの膝の上に紙袋を乗せてやる。
「ああ、ありがとう」
 執務室に居るのと変わらない笑みで彼は答えるものだから、やっぱり俺は気が狂いそうな気分になった。いや、もう狂っているのかもしれない。
 自分の上役をこんな部屋に閉じ込めて、露見すれば奪われるのは命だけではすまないというのに。
 俺はベッドの逆側に座って、耳を塞ぐ代わりに、夕刊を開いた。誰かが食事を取る音を背中に聞くと、まだ居なくなって間もないあの子たちの事を思い出す。
 紙面に踊るこの街の復興が、逆に恨めしいとさえ思えた。
「お前、メシは」
 もそもそとやっている合間に彼はそう言って、膝立ちですぐ背後にやってくる。
「……食ってきた」
「そうか」
 俺の嘘に満足したように、部屋の中にはまた咀嚼している音だけになった。
「なあ、教えてくれ」
 声にすることさえ胸に詰まるので、何度も問いかけ続けた主語を省略して言うと、背中合わせに座り直したらしい気配がした。
「俺はお前を満足させるような言葉は何一つ持っていないよ」
 短い食事を終えたらしい彼は、パンパンと手を払いながら答える。
「聞き飽きた」
「言い飽きたよ」
 本当に心の底からそう思っているだろう声音に、信じたいという気持ちはあった。けれど、状況が、組織が、親父の命令が、それを信じさせてくれない。
「俺は本当の事を知りたいだけだ」
「ほんとうか?」
 彼の問いかけに目を閉じた。
 本当だ、とは返事が出来ない自分の弱さに。
 震える手で来たままだったコートのポケットから銀のケースを取り出し、その中のパラフィン紙の包みを破る。
「続ければ、帰って来れなくなるぞ。いくらでも見たことあるだろう」
 至極真っ当な警告を鼻で笑い、手の甲に白い粉を細く線にした。逃げている。帰る場所を失ったのだから、俺はどこにだって行けないというのに。
「ルキーノ」
 鼻を近づけようとした手首を、女とは違うけれど華奢な手に掴まれた。
「何度でも、聞けばいい。お前が諦め切れるまで」
 また、俺が彼に掛けた鎖の音がした。彼の足首と今彼のテリトリーになっているベッドの足を繋いだ鎖。
 けれどベッドの傍ら、サイドテーブルに置かれた電話には手は届く。
 彼はその武器を手に俺をいつだって殺すことが出来るのに、「明かりを絶やさない」という条件だけで、ずっと彼はここで仕事をし、俺が彼にしている仕打ちを隠し続けていた。その理由は――。
「どうしてあんたは、一言俺に信じてくれと言ってくれない」
「それでお前は満たされるのか?」
「けれど……救われるかもしれない」
 自分のものとは思えないほど弱々しく掠れた声音に、自嘲する。
「あの人たちが、――あんたが俺を裏切っていないと、信じたい」
「……ルキーノ」
 彼は身を乗り出し、パラパラと手の甲から溢れ始めた白い粉に舌を這わせた。
 その薬を今日はまだ身体に入れていないのに、ぞわりと総毛立つ。
「俺にはお前を救ってやれない。ただ、お前が諦めるまで付き合ってやることは出来る。お前はもう一人の俺の――」
 ぴちゃぴちゃと、熱を持ち始めた舌が指の又まで濡らし、男にしては半端に伸びた髪がその上をくすぐる。
「どうして――あんたには、俺をなじって殺す権利さえあるのに」
「ン……、言葉ひとつでお前の怒りや悲しみが収まるか? ほんとうは、自分を、自分でどうしたいかも分からないんだろう」
 薬を口にしておきながら、正しい事を言う男を乱暴に抱き寄せると、捕まえたときの折れてしまいそうな印象がそのまま蘇る。あの時と同じに、彼はひとつも抵抗を見せない。
「あんたは……何もかも知っている素振りなのに――答えだけはくれない」
「それはお前の願望だ」
 瞳孔が開いてしまった暗い瞳で、それでも彼ははっきりと俺を見て、笑う。
 願望と言うのなら、今この状況も彼の表情さえそうな気がした。
 若手でありながら冷酷無慈悲――指先の仕草一つ、コール一つで他人の生命を決めることが出来る、コーサ・ノストラの手本のような男。
 親父が命令すれば、きっとこいつはどんな事でも実行する。だから、疑った。
 その結果が、これならば。
 目の前のこれは、本当なのか。
 何かを確認するために、口元の溶けきらない白い粉混じりの唾液を舐め上げようと顔を近づければ、そのキスは彼の左手の指輪が受け止めた。冷たい感触に再び目を見れば、彼は至近距離で無為に優しく囁く。
「ここのところ……毎日だろう――、やめとけ。俺で遊んでいい、から」
 彼の言葉は、半分が英語で半分がイタリア語で、意味がさまよい始めていた。
 貼られているガーゼ越し、右頬にそっと手がそえられ、その下に隠されている傷がチリっと痛む。
「俺は俺で、お前を利用しているだけだ。気に病むな」
「ほんとうに、か?」
 まるで子供のような声が出た。
「本当だよ」
 そう言われて、何故だか素直に頷けた。
 そのまま彼をベッドに押し倒す。ベッドの上に残っていた書類がガサガサと音を立てた。
 鎖が俺の邪魔にならないように、彼が足をずらすのが分かった。どうしてそうするのかは、理解出来なかったが。
「例えば俺が正しい人間なら、こんな手段は取らない。例えば……あいつなら、きっと本当の意味でお前を救ってくれるだろうに」
 目に前の男は、女がベッドの上でそうするように、柔らかく俺の髪を撫でながら言う。
「あいつ?」
 男のシャツのボタンを外しながら問うと、酷く嬉しそうに彼は口にした。
「天使だよ」
 たったそれだけに、心臓が跳ねる。
「――……、……」
 呼びかけた名前を喉の奥に飲み込みと、ああ、と男は何かに気づいたように目を細めて、指で俺の噛み締めた唇をなぞる。
「どうして我慢するんだ。今のは俺の失言だろ……馬鹿だな」
 心底そう思っているだろう声と共に、背に腕を回される。
「いまさら、何を隠す」
 隙間なく触れあえば、彼の心臓の震えが直接伝わってきた。
 抱きしめられたまま、目を閉じると心音は耳にも届いて苛立ちを呼ぶ。もうあの子たちは生きていないのに、自分は無様に足掻き、他人をまだ求めるのか。
 それでも体温を求めるように、腕が縋る。
「お前は壊したがってるくせに、触る手は優しいな」
 あやすように背中に触れる手からは、生きている人間の熱が伝わる。
 そのまま首筋を指先が撫でて、ちゅ、と小さな音を立てて彼は俺のこめかみに口づける。
「弱い癖に、正しさを愛し過ぎだ」
 とろりと熱に溶けた目が彷徨いながら俺を見たので、邪魔な眼鏡を外してやる。
「あんたは、強いな」
「俺はお前より弱いよ。お前からは、見えないだけだ」
 普段より軽く、クスクスと笑う彼の手に邪魔されて動けなくなり、半ば投げるように眼鏡をサイドテーブルに放った。
「どこが……」
 俺の髪をかき混ぜている男は、眼鏡の行方は気にしないように楽しげにしている。
「……となりの芝生は青いよなあ」
 何処か遠くを見るように言うのを、もう無視してすべて脱がしてしまおうと、彼の足の鎖に手を掛ける。
「あ……外す、な」
 自分のスラックスのポケットに入れたままだった鍵に手を伸ばす前、声に制止された。
「どうして、だ?」
「だれかに……ひつようと、されたいんだ。……なんでも、いいから」
 意味を理解するのに、数秒を要した。意味が分かってもなお僅かな混乱が離れず、そのままを口にする。
「……鎖でもか」
「それが、いちばんいい」
 女が寝物語を語るように、その声はあった。
「これは、ほんとうだろ。ウソをつけないものだ。なにより、たしかな……。だから、――」
 彼の身じろぎと共に、鎖が重い音を立てる。
「だから、……俺を利用してる?」
 言葉を継げば、彼は泣き出しそうな顔で笑った。
「わらえよ」
 嘘のありえない事実は――確かに今の俺を利用していた。ラリった頭が生み出した幻にしては出来過ぎだった。
「笑うにはキツい冗談だ」
 ならば、利用しているのは俺だけではなく――。
「……だから、あんたは組織に忠実なのか?」
 鏡写に刻まれたタトゥーを撫でてやると、くしゃりとその顔が歪んだ。
「ハ、は……ぜんぶを否定、できないな……」
 視線は外され、触れていた手に指が絡められる。その指先を唇で舐めるように触れて、放して、彼のベルトを引き抜く。
 それから枕の下に隠したままだったナイフを取り出して、開いた。彼は怯えるでもなく、じっと俺の動作を見ていたので、くすぐったいような気分になって苦笑する。
「少し、腰上げろ」
「んっ……ぅ……」
 小さく男は頷いて、気だるそうに腰を持ち上げる。そのまま下着ごと彼のスラックスにナイフを入れ、ただの布切れになってゆくそれをベッドの下に払い落とす。
「レイプされてるみたいだ……」
 他人事のように笑う男に呆れて、畳んだナイフを同じように投げ捨てた。
「そういうのがお好みなんだろ、あんたは。……もう、出てるぞ」
 露になった場所で半端に勃起しているものにつっと指を這わせ、先走りに近い薄い白い液体を腹まで伸ばしてやると、それだけでびくびくと彼は震える。
「っふ……ぁ、あ――」
 想像もしなかった甘ったるい声。薄く開いて震える呼吸を繰り返す唇に、今度こそ自分の唇を合わせる。
「――、……っぅ、ンう……だめって……いった」
「……悪い」
 男が発した言葉に酔ったまま、少しも効かない薬を舐め取り顔を上げると、ポケットの中で鍵とさっき使ったばかりのケースが触れ合ってカチリと音を立てた。
 己の持つ、もう一つの鎖の存在に、ゾッと欲が頭をもたげる。長らく感じていなかったそれに、喉が震えた。
「……首枷や手枷はないが、もう少しコレをやろうか?」
 ケースを片手で開けてパラフィンの包みを引っ張りだし、丸めたままのそれで濡れている唇をなぞってやる。
「ア――」
 ごくりと彼の喉も動く。
 普段には絶対ない、媚びるような色を含み潤む目に、乾いていた場所が満たされる感覚がした。自分の中に確かに根付いている外道としての血が、耳元で脈打つ。
「二、三日くらい、面倒みてやるよ」
 甘い毒を囁いて耳の裏から首筋までを撫でると、小さく彼は頷いたように見えた。
「ほら、舌……」
 言えばゆっくりと口が開き、震える赤い舌が差し出される。
 自分の口で包みを破りその上に白い粉を零してやって、そのまま指を差し入れる。舌の裏や歯茎に擦りつけるように動かしてやってから指を引き抜くと、はあはあと男は犬のような荒い呼吸を繰り返す。
「ふぁ……、ぅ……」
 離した手はおぼつかない指に掴まれ、また熱い口内に迎え入れられる。
 だらしなく舌を出し、まるで性器に奉仕するように指をしゃぶられ、俺もそれだけで勃起していた。
 罪悪感と、悦楽が交じり合って、首の裏がチリチリする。
「…………、ベル――」
 名前を呼びかけると、ふらりと視線が持ち上がって、その瞬間だけ確かに彼は、射抜くように俺を見た。声が途切れる。
「もう、わからない、……ぜんぶわすれる」
 ゆっくりとした瞬きで、目は伏せられた。ぽたぽたと涙が俺の手に落ちて、そこに犬のような仕草で彼は擦り寄る。
「だから、な」
 ――何が、だから、だ。
 俺を殺せる武器も権利も、俺を救ってくれる真実も嘘も持っている癖に、楽にしてくれない男の強さなのか弱さなのかも分からない手が、優しく俺の胸を撫でる。
 限界だった。
 目の前の男と違う名前をありったけ吐いた。


*


 受話器を肩で挟んで上役らしい人間と通話しているベルナルドを邪魔しないように、机に山と積まれている書類の更に上に、請求書の束を載せた。
 通話相手と淀みなく会話を続けながら、俺と請求書を見比べると、ベルナルドは簡単な仕草で窓際のソファを指さした。
 上司の命令だ。大人しく俺は示されたソファに座り、煙草に火をつけた。
 とりとめもない煙の行方を眺めながら、ベルナルドの声を聞く。あの日の彼とはまるで違う声。未だに、夢か何かだったんじゃないかと、思う。
「いい男に仕上がったな」
 電話を終えたらしいベルナルドの声にそちらを見ると、彼はトンと自分の右頬を指さす。
「そりゃ、どうも」
 深く残った傷跡を自分でもなぞって、心にもないことを言う。
「俺の胃が痛くなるくらい、仕事に励んでくれているようで何よりだ。親父も安心してたぞ」
 ベルナルドは今しがた俺が置いた請求書を眺めながらぼやきながら、俺の正面に座る。
「ん……」
 あの日以来、会うのは始めてで、埋められないギャップに曖昧に返事をした。
 パラパラとベルナルドはいつものように書類をめくりながら、ブツブツと何事かを呟く。
 俺が鎖を外したその日の内に、彼は黙って隠れ家から姿を消して、同じ週の内に俺もその部屋を処分した。だからなおさら、夢のように思えた。
 目の前の男が何も言わないから、余計に。
 それは、こいつが現実ではないものにしてくれているようで、ありがたい反面もどかしかった。
「……あんたは優しいな」
 しみじみとそう言うと、ベルナルドは心底困った顔で緩く微笑んだ。
「同じことをもう一度言ってみろ。撃ち殺してやる」
「褒めてやってるんだ」
「どこだが」
 そう言われて、肩を竦めた。
「確かに、ヤクザ相手に言う言葉じゃないな」
 グリーンの目が細められ、ベルナルドは深くため息をついた。
「誰かにとっての都合の良さを優しさなんて言うなら、糞喰らえだ」
 一瞬を考え、ふ、と息を吐いた。
「――意外とガキだなあんたも」
 ziririri――と、会話の終了を告げるコール音が鳴り響いた。
 ベルナルドが肩を竦めるのを合図に俺は立ち上がり、軽く「チャオ」と呟くと踵を返す。
「……ああ、そうだ」
 ドアノブを手にかけた瞬間に投げかけられた声に向き直ると、彼もまた受話器を上げる直前だった。
「おかえり、ルキーノ」
 ベルナルドはあの時と同じに笑って、俺の名前を呼んだ。