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幸せに慣れない

 雨に煙る街は好きな癖に、車内で聞く雨音は嫌いだった。
 心の柔らかい場所を思い出したくない何かにチクチクと刺される感覚がするからだ。
 滑るように走っていた車が静かに停車し、やがて傍らのドアが開かれた。差し出された傘の下に足を踏み出すと、まるで女性にするように掌が向けられる。
 気まぐれにその手を借りると、完璧な所作でエスコートされる。流石、自分に惚れない女はいないと豪語するだけはあった。
「危うく、惚れそうになった」
 アパートに入ると手が離れ、礼と共にそう冗談めかす。赤毛の男は明らかに表情を曇らせて、可愛い奴だと思った。俺だったらかわしてなかったことにする言葉を、わざと受け取って感情に乗せるのが、どうしようもなく。
「――惚れろよ」
 囁きは吹き消せば消えるタバコの煙ほど微かな声音で、ふいと背を向けた男のくせ毛を見ながら、目を細めた。
「お前だって、逃げる癖に」
 今度こそ、吐きかけた言葉は黙殺される。
 いつの間にか閉じられた傘から、ポツポツとこぼれ落ちる雫がアスファルトを濡らす。
 雨の匂い。雨音が、静寂に鳴く耳鳴りに似ていた。だから、嫌いなのだ。
 一定の距離を保って部屋まで歩いた。
 くだらないすれ違うだけの逢瀬が繰り返される部屋のドアをくぐると、先を歩いていた男が傘を取り落として、俺は反射的にそれを拾おうとした。傘には指は届かず、手首を掴まれる。
「なあ」
 男の赤い目は、真っ直ぐとは俺を見ていなかった。見れるはずがなかった。
 お互いにお互いを正視出来ないことくらい、最初から分かっている。それでも手首を持ち上げられ、壁に身体を押し付けられた。
 至近距離でみた男の前髪が雨にしたたか濡れていて、雨粒が俺の顔にも降りかかった。
「なあ……」
 何かを言おうとする唇が恐ろしくて、俺は首を横に振る。
「別れ話なら聞くけどな」
 けれど、と言ってしまってから、その先を自分も持たないことに苦笑した。結局、このラインで俺たちは立ち止まっている。
 触れたい。触れられない。触れたくない。触れられたくない。
 最後の一歩の距離を、さまよい続けている。
 今にも死にそうな顔をした男が、そっと顔を近づけてきた。
 泣いているわけでもないのに、その頬につっと水の粒が滑っていく。そこに手を伸ばしたいと思ってしまう俺も、目の前の男と同じ顔をしていた。
「駄目、だ……」
 ギリギリの拒絶に殆ど相手の鼻先に息の掛かる距離で呟くと、甘ったるいムスクの匂いがして、続きは永遠に摘み取られた。
 雨の音が耳に残った。
 ずるずると壁につけた背中を下に滑り落としながら、その甘さよりふつふつと足元を焼く恐怖に俺は怯えていた。