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306(unused)

 もしも神がいるとするのなら、なぜこの世界には苦しみばかり溢れているのかと、俺は問うことが出来ない立場にいる。
 俺がもし、それを口にしてしまえば、大きな問題になるだろう。
 神がいるとするのなら――気分屋で眩しいブロンドの、感情からでなく、賽の転がる先で何もかもを決めるような存在に違いない。そういう存在だったら、心当たりがあった。

 本部の完成当時から最上階には幹部の私室が用意されていたが、泊り込みの仕事や仮眠に使う以外、ほとんど使用されていなかった。特にルキーノは必ず自宅に戻っていたから、数ヶ月前までは生活感のかけらもない部屋だった。
 その部屋に預かってきた花を飾りながら、窓際にあるベッドの方に振り返る。
「ルキーノ、この辺でいいか?」
「あ、ああ」
 ベッドの上で上半身を起こしている男は、俺にわかるように頷いた。
 花瓶から手を離し、俺もベッドの側に行くと、いつもそこに置かれている椅子に腰掛ける。
 ルキーノは数か月前から、この部屋で“療養”していた。
「今日の具合はどうだ?」
 彼の顔色を見ながらそう尋ねると、ルキーノはなんとか答えようとする。
「わ、わ……わるく、……わる、く」
 上手く回らない舌で、焦りのせいか余計に上手く喋れないでいるルキーノの腕にそっと触れた。
「ゆっくりでいい」
 ルキーノは下手糞な舌打ちをして、シーツを握り締めた。
「き、聞き……苦しいだろ」
 どんな時も外に怒りを爆発させるタイプだったルキーノが、こんな風に萎縮しているのを見るのは、辛かった。代わってやるなど気軽に言えるものでも、苦しみを理解することさえ難しい。
「スキャットみたいなもんだろ。そう悪くない」
 それでも、ルキーノにそう告げる。
 実際、俺はルキーノの声が好きだった。吃音でルキーノは苛立つことが多くなったが、それでもその声音は、変わらず俺には心地いい。
「――あ、あんたは、かわってる」
 ようやく、ルキーノは昔のように笑った。

 ルキーノが倒れたのは、もう半年ほど前のことだ。
 二晩眠り続け、このまま死ぬかもしれないと言われていたが、持ち前の体力からかルキーノは、三日目に目を覚ました。ただ、身体を上手く動かせなくなり、吃音が残った。
 幹部の役を解かれたルキーノは、半分は護衛のために、半分は体のいい幽閉のために、この部屋に置かれている。ルキーノは組織を知りすぎている。なんの役割にも縛られない状態で、外には置いておけない。きっとそれはルキーノ自身も理解しているだろう。
 だからこそ、余計に自分の状態に苛立っている。
 ルキーノは伸びた髪を手の甲で後ろに流しながら、俺を見て言う。
「ベルナルド、た、たばこ、くれないか」
 不良患者の言葉に苦笑しながらも、ポケットのシガーケースを取り出す。
「ドクに叱られるぞ」
 口ではそう言いながらも、紙巻きを取り出してルキーノに差し出した。
「か、カンパ、ネッラのせいにでも、する、さ」
「なんて上司だ」
 以前の部下に冤罪を押し付ける男は煙草を受け取り、それに火をつけてやると、ルキーノは少し顎をあげてフィルターに口をつけた。チリ、と音をたてた煙草を咥え、かすかに目を細めて煙を吐く。
 ひどく緩慢な動作だった。
 あまり煙草が燃えてない。
 味わおうとゆっくり吸っているのか、病のせいで吸う力が弱くなっているのか、見ている限りは判断できなかった。
「……う、まいな」
「そうか」
 ルキーノは細く漂う煙の行先を眺めていたが、ふと窓の方に視線をやる。
「ま、まどを開けてくれ。に、においが残る」
「ああ」
 立ち上がり、ベッドすぐ横の窓を開け放つとかすかに冷たい風が入ってきた。
「少し寒いな。吸い終わったら閉めよう」
「いや、いい。こ、のほうが頭が冴え、る」
 そう言いながら、ルキーノは窓の外を眺めている。周りに狙撃を警戒するような建物はなく、外はまっさらな冬に空の青だけがあった。
 それからしばらく、組織の近況について話した。もうルキーノが帰れない世界の出来事を話すのは、俺が叶えてやれる数少ないルキーノの望みでもあった。
 窓を開けたときには部屋に戻された煙も、もう外へ逃げ出している。
「そ、それで、ひ、ひっとう、自ら、花を届けて、世間話でなぐさめにきた、だ、だけじゃないだろ?」
 ルキーノは窓の外を眺めたまま俺に問いかけた。
 言うべきなのは、分かっていた。
 それでも、口に出してしまうことによって、ルキーノの運命を自分が決定づけてしまうような気がして。
「ベ、ベルナルド」
 声をかけられて自分が俯いていることに気付いた。
 顔をあげると、ルキーノはこちらを見ている。無表情のような微笑んでいるような曖昧な顔だった。
「言え、よ」
 促されて、一度小さく頷く。
「……ルキーノ。君は、もう長くない」
 できるだけ感情を込めず、できる限り感情を悟られないように告げた。
「知ってる」
 簡単にそう言ったルキーノは、表情を少しも崩していない。
 狼狽するのは、自分の方だった。
 ドクが漏らしたのか、自覚症状で悟っているということなのか分からず、ベッドの上からは見えない位置で掌を強く握る。
「そんなに悪いのか」
「か、からだ、か? むしろ、そ、そっちはそこまでじゃ、ない、な。ままだ、コレもあじわ、える」
 ルキーノは、小さく煙草を掲げてみせる。
「なら……」
「ど、ドリトル先生、に聞いた」
「……お前の妻子の死亡診断書を書いた、町医者か」
 頷くルキーノを見ながら、まだうまく状況を整理できずにいた。
「あ、あんたも、やっぱり……あのい、医者のこと、しってた、だな」
 責めるでもなく言ったルキーノに、俺もまた頷く。
「ドクとは別で、診断を受けていたのか」
 問い掛けにすぐには答えず、ルキーノは、ふぅ、と最後に一度長く紫煙を吐くと、窓の外へ顔を向けて、短くなった煙草を指で弾いた。
 それは、車で煙草を吸っている時のルキーノの癖だったが、勢いが足りず窓枠にぶつかって手前に落ちた。ルキーノはそれに苦笑し、俺にすまない、と小さく謝る。
 俺が吸殻を拾い上げている間、ルキーノは少しずつ理由を口にした。
「む、むずかしい、話じゃない。ファイルのな、中でぐらい、シャーリーンたちと、い、一緒にいた…、い、ても、いいだろ?」
 つまずきながら吐き出した切実な言葉の途中に、ルキーノが深く呼吸し直すのが聞こえる。
「――どう、せ、お、おれに、は天国のと、とび、らは、開かれ、ない」
 小さな火の残った欠片を投げ捨てる俺の背中に、まるで懺悔のような言葉が投げかけられる。
 胸を衝かれたような思いがした。肯定も否定も言葉にはならない。
 窓の外に放った赤い瞬きは、すぐに見えなくなった。
 ぎこちなく振り返ってルキーノを見たが、部屋に入り込む真っ赤な夕陽のせいで、彼の表情は見えなかった。
「そ、それに、おれが“知りたがり”なのは、あ、あんたも知ってるだろう?」
 外は陽は傾き始めていて、夕焼けの空に溶けそうなルキーノの赤い髪が、ときおり入ってくる風でかすかに揺れている。
 それに見とれてしまいそうで、俯いてしまった。
 視線の先には、白く細くなったルキーノの手が投げ出されている。
 見てはいけないものを見たような気になった。
「な、なぁ、ベ、ルナルド」
 思いがけず、明るい口調で呼ばれ、顔を上げる。
「なんだ」
 返事をすると、見えている口元がはっきりと笑うのが分かった。
「お、おれを、殺してくれ、ないか」
 痩せた手が、そっと差し伸べられる。
「……ルキーノ」
 縋るような手を取って、俺は握り返した。
 ジョックらしく自分とは正反対だった腕が、今度こそ紛れも無く病人の手に変わってしまったのだと思い知らされる。
「もう、じ、充分な、んだ」
 ルキーノが喋るたびに、手の中で節ばった指が跳ねた。
「し、シャーリーンもアリーチェも、う、失った。く、クスリにも、溺れかけた、が、じ、ジャンを立派なか、カポに育て、られ、た」
 ルキーノの声には、諦めにも似た響きがあった。
「し、シノギは――」
 ルキーノは苦しげに言葉を切って、それでもぎこちなく笑ってみせた。
「ピアッジ、たちで、じゅ、じゅうぶんだ。充分だ、ろう。あ、挙句にこん、な――。こ、これはし、主の思しめ、召し、だろうよ。お、お許しになら、な、なかったんだよ」
 微かな声がそっと神の名を呼び、ルキーノは祈るように俺の手に額を寄せた。
「こ、これ以上、くるしむ、よ、より――な、なあ、べ、ベルナルド」
 親愛なるファミーリアの希望は、本当に彼を思うなら、俺の叶えられる少ない願いの一つとして、果たしてやるべきだったかもしれない。
 俺の手に縋るようなルキーノから視線をそらし、天井を見た。
 そこにはなにもない。何も起こらない、我らがどれだけ祈ろうと、誰の助けも、もたらされない。
 ひとつ、ため息をついた。
「すまない、ルキーノ」
 ゆっくりとそう告げると、少しの間があってからルキーノの身体が離れた。
 俯いたまま、彼は笑う。
「は、はは……あ、あんた、なら……、わかって、く、くれる、かと」
 強がる子供のような声音に、終わりならば、と思った。
「お前は軽蔑するかもしれないが……」
 そっと両肩に手をやると、骨が目立つようになっているのにやっぱり苦笑して、なだめるようにベッドに押し倒す。
 ようやく、表情がはっきりと見えた。
 状況の分かっていないルキーノが瞬きをするのが、ひどく幼い仕草に見えて、なおさら息が苦しくなった。
 そっと括られていない髪を撫でて、その一房を摘んで唇を付ける。
「家族に、こんな感情を抱く俺を、お前は許せないだろう?」
 そう問い掛けると、ようやくルキーノは状況を理解したらしかった。狼狽える顔が愛おしくなって、唇を重ねていた。触れるだけの児戯のようなキスに、してしまってから自分でも驚く。
 超えては行けない一線を、いともたやすく超えられる程度には、俺はルキーノが好きだった。恋だの愛だの、美しいものかどうかは分からない。
 ただ死なせるくらいなら、触れたかった。
「俺には、お前は殺せない」
 はっきりと伝えると、ルキーノはどこか視線をさまよわせて、半ばのし掛っている俺の肩を押す。
「ど、どうじょう、じゃないの、か」
 的外れなことを言うルキーノの額に唇を落として答える。
「お前に憐れむところがどこにある」
 きょとんと俺を見たルキーノは、は、と息を漏らして笑った。
「あ、あんたも……い、イタリア、人だったな」
「ああ」
 小さく笑みを返すと、肩にあった手がおずおずと俺を抱き寄せたので、逆らわずに抱き合う。ルキーノの弱った心に付け入るようなセリフであったから、本当に受け入れられたのかどうかは分からなかった。けれど、今だけでも、触れられることを許されたことが嬉しかった。
 どちらが言うでもなく、キスだけを何度も繰り返した。
 ルキーノの唇は渇いていて痛々しく、癒すように舌を這わせると薄い血の味がした。
 戯れに口内に舌を入れると、ルキーノがぴくりと背を震わせたのが愛おしい。低い体温で冷たく感じる粘膜を温めるように唇を重ねた。
 ただ、口づけだけを、何度も。
 真っ白いシーツを赤く染めていた夕日の明かりが、落ち着いた紫になり始めた頃、ルキーノは息の触れる至近距離で呟いた。
「す、少し、つ、つか、れた」
 そう言われ、わずかに紅潮した頬とそこにある傷を掌でなぞって身体を離す。
「もう寝てろ。夕食はあとで運ばせる」
 寝具をルキーノの肩まで掛けなおしてやると、恋人同士のような錯覚をした。
「あ、あんた、も、ちゃ、ちゃんと、やすめ」
 掠めるように俺の指に触れた手に頷いてから、用事を思い出し自嘲する。
「銀行通りの事務所に寄ってだけ来るよ」
「わ、ワーカホリック、め」
 ルキーノは以前と変わらずその単語で俺を虐めてから、視線で部屋の出口の方を見た。
「ま、まどは、そのままで、いい。そ、それくらいなら、じ、じぶんで、出来る」
 一瞬、冷えた空気が入り込む窓をみたが、そう言われれば諦めてもう一度だけキスをしてから、ベッドを離れた。
「良い子で寝てろよ?」
 わざと子供扱いすると、ルキーノは笑って俺の肩を軽く叩いた。
「ベル、ナルド」
 入口の前まで戻った時、部屋を出ようとする俺をルキーノは呼び止めた。
「ん?」
 振り返るとルキーノは目を細めて、恋人にするように膝の上で小さく手を振る。
「――お、おやすみ」
 やはり、俺はどれだけ変わっても彼の声が好きだった。
「おやすみ、ルキーノ。またあした」



*

 俺はその言葉には返事を返さなかった。
 ベルナルドが部屋を出ていったあとの静寂に、俺は自分の指先をじっと見ていた。
 ベルナルド。
 あんたの口づけで、満たされた。
 シャーリーンとアリーチェを失くした傷が、少しだけ癒えた気がした。
 でも、それだけは許せない。
 あんな苦しい思いをさせておいて、その傷を埋めてしまおうだなんて。忘れてしまおうなんて。
 息絶えたシャーリーンの頬の冷たさを。弾けてしまったアリーチェの血の温かさを。
 絶対だめだ。
 俺は俺を許さない。
 受け入れてしまえば忘れてしまう。そんなこと――。
「っふ……べる……ぅう…、っ、べるな、ぁ――」
 もつれる舌が、あの男の名前さえ上手く呼ばせてくれない。俺は笑っていた。
 この期に及んでも、俺は縋る名前さえ間違えている。
 夜の闇はすぐそばまで迫っていた。空から溶け出すような闇に、追い立てられるような気がした。
 俺はもたつく身体をなんとか支え、窓に身体を乗り出した。
 早く緞帳を降ろしてくれ。舞台照明が落ちたあとに倒れるなんて無様すぎるんだ。



 そうして、赤い鳥は逃げた。




◇ ◇ ◇



 タタン、タタン、と繰り返される音だけ聞いていると、ミシン掛けをしている女性の部屋にいるような気分になる。
 俺の妻だった女性は小さく儚くて、肩を抱けばそれだけて崩れてしまいそうで、彼女の部屋からもよくこんな音がしていた。子供が出来てからは、特に。初めて作ったと、あまりバランスの良くない初着を俺に見せてくれた。彼女と、天使を迎え入れる喜びを感じていた。
 ――それを壊したのは、自分だった。

 窓の外には暗闇に銀河の川が流れている。見慣れた光景は、それでも見飽きることはなかった。
 やがて、誰かの為に列車は停止した。
 その誰か、を俺はもう随分と長い間待っていた。心の準備をするのに、今までかかってしまったので、待たせたのは自分の方だったのかもしれない。
 数分の停車時間、無為に窓の外を眺めていた。
 ホームに人影はなかったが、列車の中には幾つか人の気配が増えるのが分かる。
 やがて汽笛がなり、再び列車はゆっくりと動き始めた。
 悲しむべきなのかもしれない。
 自分がこの列車に乗り込んだ時、彼は向こう側で泣いていたはずだった。それとも、気丈な男は誰の前でも、一人きりでさえ泣かなかっただろうか。
 座席から立ち上がると、長いこと腰掛けていた場所に別れを告げて歩き始めた。
 座席に手を付きながら、一歩ずつ列車の進行方向に進んでいくと、通路側の席にグリーンの髪が見える。薄ぼんやりとした車内の光にも、見間違えようもない。ずっと待っていた相手なのだから。
「ベルナルド」
 久しぶりに声を出した気がした。
 ふらりと頭が動き、通路に顔を向けた男が目を見開く。
「……――ルキーノ」
 色の悪い唇から紡がれた低く小さな声は、俺の名前を呼んだ。それだけ泣き出しそうな自分を自覚して、苦笑する。
「座ってもいいか?」
 向かいの席を指さすと、上手く状況を理解できていないらしいベルナルドは、躊躇してから頷く。
 許しを得てベルナルドの正面に座ると、何故か気恥しくなる。ベルナルドは俺が最期に見た時と同じ服装で、同じくらいの年頃だった。
「おまえ、ことば……」
 まだ混乱しているだろうベルナルドに笑いかけて、唇に指を当てる。
「あっちのほうが、お前の好みだったか?」
 俺が疎んだ吃音を悪くないと言ってくれたのを思い出して言うと、ベルナルドは頭を振った。
「お前の声なら、いい」
 ベルナルドは言ってから、何故か顔をこわばらせた。
「色々あったんだ。沢山、お前がいない時間が、あった」
 短く切るように言うと、ベルナルドは髪を揺らし俯いた。眼鏡ごと両手で顔を押さえ、痛みに呻くように続ける。
「これは夢か?」
 自分の顔に爪を立てるように、ベルナルドの手指がぎゅっと動く。
「俺はもう随分と歳を取って……お前に合わせる顔もない」
 昔と変わらない、ピアノを弾くのと同じようにタイプライターや計算機を叩いていた指先が震えていた。
 ああ、俺はその手が好きだったんだと、思い出し、目を細める。
 すべての出来事をチェスの盤上のことのように扱う、無慈悲に駒を動かす指先が、迷いなんてひとつもないように生きている男が、俺には密かに憧れだった。
「馬鹿だな。醜く生きたとでも思ってるんだろう、あんたは」
 俺の憧れだったのに、昔からこの男はこうやってどこまでも自信を持てずにいた。俺より遥かに長い時間を過ごしてもそこは変わらなかったのかと、微笑む。
「ここではもう、時間だって関係ない。けどな――」
 そっと手を伸ばし、顔を覆っていた掌を取った。
「枯れ木みたいなジジイの手だって、あんたになら同じことをしたさ」
 触れた手は冷えていて、彼らしいと思えた。短く切りそろえられた爪を自分の指でたどりながら体温が届くように握りしめる。彼が、何者だったかを思い出させるように。
「覚えてるか? いつか、ジャンが俺たちにくれたもの」
 こつりと額を合せ、その掌を開かせる。
 するとベルナルドの手の中には、ジャンのおかげで俺たちが得ることのできた切符が、魔法のように存在していた。
「ああ……ああ、そうか」
 ようやくベルナルドも全て了承したように小さく何度も頷く。
 俺たちはあの時も、光る砂粒のような銀河を眺めながらこの列車に乗っていた。
 そっと顔と手を離しても、ベルナルドは手の中の切符をじっと眺めたままで、その理由にはすぐ思い当たった。いつでも、ベルナルドの意思は彼の傍らにあった。
「あいたいか?」
 そう告げると、ゆっくりとベルナルドの視線が俺を捉える。
「イヴァンはまだだが、ジャンもジュリオも……乗ってる」
 ベルナルドは俺を見つめたまま黙り込み、耳に届くのは列車の音だけになったが、やがてベルナルドは息を漏らして小さく笑った。
「いや――、行き先は同じなんだろう?」
 咄嗟にああ、と答えたものの、その言葉に安心したような、不安がましたような気分になって、窓の外に視線を投げた。
 遠くの星々が、街の光のようにゆったりと流れていく。ベルナルドは切符をポケットにしまってから、俺と同じ方を見た。
 同じ光景を見るなんていつぶりだろうか。
 俺はベルナルドと豚箱にブチ込まれた日と、ジャンに導かれてあそこを脱走した日を思い出した。同じ護送車で窓の外を見た。それから、あの赤いアルファで逃走した日のこと。
 遠くの明かりが宝石のように輝いていて、愛しくも憎らしいかった光景によく似ていた。
 二人してどれくらい黙っていたのか分からない。列車の走る音に紛れ、コツコツと足音が聞こえてきて通路に顔を向けると、目深に帽子を被った灯台守がそこに来ていた。灯台守は自分の存在を知らせるために、足音を立てていたようだった。
「……ああ、あんたか」
 俺の言葉に灯台守は、見えている口元に笑みを浮かべる。
「待ち人は来たようだな」
 男はそう言って、俺の返事も聞かずにポケットの中から苹果を一つ取り出すと、俺に投げてよこしてきた。
「良い旅を」
 低い声で言い残して灯台守はまた来た道を引き返し、闇に溶けるようにその姿は見えなくなる。
 視線を上げると、俺が受け取ったルビーのように真っ赤な苹果をベルナルドはまじまじと見ていた。
「食べるか?」
 つい、子供に聞くように言ってしまったが、ベルナルドもまた素直に頷いたので、俺は懐からナイフを取り出して開いた。ジャンやイヴァンがしていたように、行儀悪く果実をジャケットの裾で拭い、皮を剥き始める。
 再び、沈黙が戻った。
 くるくると丸く剥かれた皮が少しずつ床に落ちていくのをベルナルドが見ているのを俺もまた伺いながら、状況を理解したはずの彼が黙っている理由が気になり始めた。
「聞かないのか?」
 結局、自分の方が堪えられず、苹果の皮をずるずると長く剥きながら、何でもないことのように言う。この列車に乗ってなお、捨てられない下らないプライドを自分で見つけて嫌悪する。
「お前が自分から死ぬほどだったんだ。俺が聞いていいものなのか分からない」
 けれど俺の不快感にはベルナルドは気づかず、主語を省いた言葉は伝わった。苹果を剥く手は止めずに、ベルナルドの声に耳を傾ける。
「……それに俺に告げずに選んだ理由を、知るのは怖い」
 ベルナルドらしい模範解答に、上塗りされた本心に動揺する。煙のような真実に触れない言葉を好いていた男は、俺の知らない間に幾許か変わっているらしかった。
「それとも……お前が、俺に聞かせたいか?」
 ちぎれた苹果の皮が、ぽとりと床に落ちる。
 そうやって、変なところで勘がいいのは変わっていなかった。俺の本心をいともたやすく引きずりだして、蹂躙するような――手を止めた俺に、ベルナルドは「言いたくないならいい」と付け加える。
 ハンカチを広げた膝の上で、苹果を四等分に割りながらまた暫く黙っていた。
 どうやって、話せばいいだろう。神に背いて自ら命を絶った、その言い訳など。それをどうしてベルナルドに話したいと思うのか。
「ここに来てから、シャーリーンとアリーチェに会ったよ」
 苹果の芯を切り落としながら、ぽつりと彼女たちの名前を出した。俺の家族、俺の帰る場所だった彼女たちの名前。
「二人に、二つ、謝った」
 こに列車に乗ってすぐ、俺はこうやって、彼女たちとも向かい合って座った。
「信じることが出来なくてすまなかったと、それから、彼女たちがいなくなったあとに、見つけてしまったことを」
 ハンカチの上には、剥き終わった苹果が並んでいる。みずみずしい、この世界の果実。
「なにを見つけたんだ?」
 ベルナルドがひどく優しい声で言って、俺は手にしているナイフで刺された気分になった。
「死ぬ間際になって、キスだけで満たされた。それは、許されないことだと、思ったんだ」
 そこまで言って、理由のわからない涙が出た。
 ポタポタと、ベルナルドの為に剥いた苹果の上に滴になって落ちる。
「泣いてるのか、ルキーノ」
 当たり前のことを聞くベルナルドに、俺は泣いたまま笑った。
「知らなかっただろ。俺は子供の時分はひどい泣き虫だったんだ」
 まだスカートをはいていた頃のことを口にすると、余計に笑えた。本当の子供のように、涙も止まらなかったが。
 やがて、俺が泣いているのを珍しいものを見るような目で見つめていたベルナルドが、俺に手を伸ばしてきた。
「結局、俺が殺したのか。お前を、俺が」
 濡れた頬をベルナルドの指がなぞり、ポツリと言葉が落とされる。
 涙はそれだけで止まり、俺はベルナルドの顔をまじまじと見た。緩く微笑む顔は、――ひどく破滅的な喜びを俺に教えた。
「――俺は、あんたに殺された。あんたの開け放った窓から、」
 そこから先は、喉が潰されたように声にならなかった。窓枠に手をかけた感触が掌に蘇って、俺はナイフを取り落としそうになる。ベルナルドがそれに気付いたのか、そっと俺の手からナイフを放させると、折りたたんで窓際のテーブルに置いた。
「あのあと、お前の落ちる音ですぐ引き返したんだ」
 うたうように、ベルナルドは俺の知らない俺の終わりの話をし始める。
「部屋の真下に、お前が倒れてた。警備をしていた誰かがお前の呼吸を確認して、首を横に振ってるところだった」
 血なまぐさい話をしているのにも関わらず、ベルナルドは俺の膝のハンカチの上に置かれたままだった苹果を摘み、さくりと一口齧った。
「綺麗に割れた頭から、血液以外のものもはみ出していて、それが死体なのは否定しようがなかった。見慣れてるってのも、考え物だな」
 マフィア然とした物言いが懐かしく、俺もまた苹果の欠片に口をつけた。
 一つずつ食べて、もう一つをベルナルドに手渡すと、彼はそれを受取りながら笑う。
「あの時きっと、俺もお前に殺された」
 ベルナルドの言葉に、ぞわりと鳥肌が立った。さっき、ベルナルドが持った感情と同じものを抱いたのだろう。人に許された心かは、分からなかったが。
「それでも、生きている振りをしながらイヴァンといた。いまは、あいつが一人きりになったのが気がかりだ」
 子供を懐かしむような親の目をしたベルナルドを見る。この男の変わらない部分を知ったからこそ、彼は変わったのだとよく分かった。本当に長い時間を離れていたのだ。
「……あんた、イヴァンのこと可愛がってたからな」
 それでも変わらない場所を口にすれば、ベルナルドは柔らかく目を細めた。
「嫉妬か?」
 からかうような声音。この声だけを聞いていたいと思った。
「小僧相手にするかよ」
「今じゃ、お前よりあいつが年上だ」
「はは、そうだったな」
 笑いながら、同じように長く会っていない生意気な男の顔を思い描こうとしたが、上手く出来ない。きっと、ここで会うときにはベルナルドと同じく昔のままなのだからと、想像をやめた。
「イヴァンだけじゃないさ」
 最後の苹果の欠片をすっかり食べてしまうと、ベルナルドは改めて言う。
「ジャンもジュリオも、お前も、年長者として可愛かったんだ、俺は」
 親の顔でベルナルドは一人頷くと、考え込むように手指を組むとそこに唇をつけて首をかしげた。
「イヴァンもあの組織も、お前たちがいなくなっても、生き残れたんだ。俺がいなくなっても、同じだよ。そうでなければ、おかしいだろ?」
 余りにも自分を切り離した回答に、出会った頃から感じていたベルナルドの強さや決断の迷いのなさを思い出して、ため息が出た。
「淋しくないのか?」
「むしろ安心したよ」
 ベルナルドは、やはり少しの逡巡もなく言ってのけた。
「あんたらしい」
 そう言って俯くと、逃げ出した自分と比べてここにいてはいけない気持ちになる。
「あんたは……昔から、出会った頃から正しくて……」
 だから、変わることも恐れないのだろうか。誰かが変わっていくことを許容出来るのだろうかと、言葉を飲み込んだ。
「ルキーノ」
 名前を呼ばれ顔を上げると、苹果の匂いの残る指に、また顔を撫でられた。
「大丈夫だよ。お前だって、同じ切符を持ってる。同じ場所に帰るんだ」
 見透かしたようなベルナルドのセリフに息を飲む。
「俺はそんなに変わったか?」
 何の躊躇もなくベルナルドは俺に問い掛けた。
 数秒、言葉を詰まらせてから、どうにか口を開く。
「変わってない。ただ、俺の知らない時間が横たわっている。俺が選んだのに、俺は……」
 言いかけた俺をベルナルドが遮った。
「お前は弱い男だよ。それをもう、誰も責めない。知っているのは、俺だけだ」
 ひどく簡単に確信に触れられ、また何も言えなくなる。そんな俺を見て、ベルナルドは嬉しそうな顔をした。
「愛しているよ、ルキーノ」
 この先には何もないと決まっていて、それなのにベルナルドは、はっきりと言葉を形にした。
「お前が弱さからそれを言えなくても」
 あの時と同じように肩を押さえられ、押し倒されるスペースはなかったので代わりに抱き寄せられた。
「また、逃げられたら困るからな」
 俺の罪をベルナルドはそんな風に軽く封じて、子供をあやすように背中を撫でる。そしてそっと、耳元で秘密を打ち明けた。
「あの時、一緒に死んでくれと言われていたなら、俺は頷いていたよ」
 破滅的な告白は、同時に無闇に甘ったるい愛の告白と同義だった。
 ようやく俺は同じようにベルナルドの背中に手を回した。あの日のベッドの上で、キスを交わした時のように。
「……あんたは馬鹿だよ」
 俺はそう呻いて、もう一度だけベルナルドの肩に涙を零した。

*



 狭い座席にただでさえデカイ男二人で隣同士に座っていた。
 ルキーノは少し前からうとうとし始め、人の肩を枕に惰眠を貪っている。
 窓の外には水のような銀河が流れていて、昔々、夢のように思っていたジャンたちといた光景が、現実であったと知った。いや、現実とも言い難いが。
 これは死ぬ前の自分が見ている愚かな夢の可能性だってある。
 それならそれで、いいのかもしれない。
 恋人のように繋いだままでいた手を引き、眠っているルキーノを起こさないように左の薬指に口づける。
 現実ならば、その罪深い行為に、俺はオメルタによって身を焼かれても仕方がない。
 けれど、この場所が現か、神がいるかどうか分からないのなら、終わりの旅路の途中で、運命に愛されすぎた俺たちの金髪の“神さま”の前で誓いを立てるのもいいかもしれないと思った。