Novel

TOP > SS > LUCKY DOG1 > Luchino x Bernardo > 誰が為に鐘は鳴る

サイドメニュー

Menu

誰が為に鐘は鳴る

 人間というのは、慣れる生き物だ。
 幸福も不幸も喜びも苦痛も、繰り返せばどこにも例外はない。悪夢も日常になってしまえば、同じ。
 目覚めた時の不快感は拭いきれないが、それでも顔に出ない程度には出来る。
 だから、これにも慣れる。心が乱れるのは今だけだ、今だけ――。
 カン、と響いた音に顔を上げた。
「ベルナルド、例の事なんだが……」
 拳で軽く格子を叩いたルキーノが、外にいる時と同じ横暴さで俺の独房に入ってくる。
「……ルキーノ」
 自分の発した声は、思ったより冷たくなった。ルキーノは何かを咎められたと思ったらしく、足を止めた。
「外、人払いはしてあるのか?」
「ん、ああ。下の奴に見張らせてるが――」
 意図が読めなかっただろう俺の言葉にルキーノはチラ、と格子の向こう側を伺い見て、再び俺の顔を見た。
 偉そうな男の表情は不満と不穏、それから少しの不安か。ああ、自分の感情がそう見せているだけな気がする。
「少し背中貸せ」
「は?」
 今度こそ、はっきりと疑問符で返事をしたルキーノを無視して、房内の便器に手を掛ける。そのまま胃の淵にせり上がったちっとも消化出来ていなかった不味いメシを嘔吐した。
 元々量が少なかったものを吐瀉し切ると、あとは黄色い胃液だけを吐いた。生理的に浮かんだ涙がぼたぼたと溢れて歪んだ視界を一瞬、自分のものではない手が遮る。
 汚れに浸かりそうになる髪をその手が背後から乱雑にだが後ろに流してくれた。息苦しさの苦痛に染まった思考で、律儀な奴もいるものだと遠く思う。
 数十秒の失態を晒したあと、幾らか嫌悪感のなくなった胃が痙攣を収め、ようやく俺はぜえぜえと呼吸を戻せた。
「……――治まったか?」
「ああ……」
「自分の体調管理にも気を使え。この時期だぞ」
「分かってるさ」
「ならいいが」
 髪に触れていた手が放れて顔を上げると、ルキーノは身体を使って俺のいる場所を外からの死角にしてくれていた。頼んだのは自分だったが、ソツのなさに息を吐く。
「――話だったな」
「いや、急ぎじゃねえから明日でいい。取り敢えず横になれ」
 強引に腕を引っ張り上げられ、地べたに座ったままだった尻が浮いた。そのまま、傍らのベッドに投げられたので、苦笑して大人しく横になる。
「風邪かと思ったが……冷たいな」
 馴れ馴れしく、浮かんでいた冷や汗を拭うように額を撫でる手を何故だか振り払えなかったのは、弱っているからだろう。
「体調には気を使ってるさ。……少し夢見が悪くてね」
「あんたでも、破滅は恐いか?」
「俺が怖いものはもっと別のもんだ」
「ふん……」
 ルキーノは鼻で笑って目をそらす。ベッドの端に座ったまま俺の額を撫でていた手は、そのまま眼鏡を取り上げ視界を塞いだ。
「寝ちまってもいいぞ」
 無為に優しいとも言える男の仕草に、本当に人好きのお節介焼きだなと呆れる。普段なら恐怖を感じるはず筈の、その小さな暗闇に目を閉じ、僅かな安らぎに安堵する自分がいる。
「魅力的だが、このあとジャンに頼まれてる事を済ませないとでな」
 自分に言い聞かせるように言葉にすると、もう一度ルキーノは鼻で笑った。
「あんたはどうしてあのワンコをそんなに買ってるんだ?」
「ボスの手紙に納得したんじゃなかったのか」
 昔、俺が本当の意味で忠誠を誓った時に交わされた約束が刻まれた、あの手紙を思い出す。文面はそれぞれだったはずだが、カポ・デルサルトの言葉はそれぞれを納得させるに十分だったはずだ。
「それは俺の理由だ。あんたはジュリオとは別の意味で人に心を許さないタイプだと思ってたからな。幾ら古馴染だからって、本来なら二代目に一番近いのはあんただろ」
「フハハ……」
 想定外の台詞に思わず声を漏らして笑い、視界を遮っていた手を解いた。
「何笑ってやがる」
「お前は、俺がカポの席に座ってる姿を想像できるか?」
「――……」
 真っ直ぐ、至近距離でも滲む赤い瞳を見据えて言えば、分かりやすい男は黙った。
「それが答えだ」
 目を閉じ、瞼の裏側の薄い明かりにそう応えた。
「……それもあいつがカポになる理由にはならんだろ」
「俺はお前の疑問に答えただけなんだがな」
 ルキーノは珍しくなおも食い下がり、俺の胸にさっき外された眼鏡を押し付けてくる。
「今に分かるさ。分かりかけてるから、気になるんだろ」
 そう言えば、ルキーノは舌打ちをして、勝手に俺のベッドの隙間に隠してあった煙草を引き抜いて、口にする。
 苛立ちのまま火を付ける仕草に、今面倒をかけているのは自分だということを棚上げして、世話のかかる奴だと思う。
「あれは……美しい男だよ。コーサ・ノストラという宗教の崇拝に足る」
 俺の言葉に、血統そのままに敬虔なルキーノは表情を曇らせた。
「俺の誓いは、ジャンカルロと共にある。ただ、それだけだ」
 改めて言った言葉に、ルキーノは暫しを沈黙で返した。
「……あんたも、他人にそう思ったりするんだな」
「何を言う。俺は根暗で自分に自信のない、典型的なナードだぞ? 他人にしか価値観を見出せないのは道理だろ」
「そういう話じゃねえよ」
 新しく舌打ちを重ねると、ルキーノはベッドから立ち上がる。
 俺もまたつられるように眼鏡を掛け直すと、煙草をくわえたままのルキーノが目を細めて俺を見下ろしていた。
「だったら、俺を――俺たちも頼れよ、筆頭」
「ん……?」
 瞬きその目を見返すと、また舌打ちがあった。
「……――まだ神格を持たない偶像を担ぐのは、一人じゃ足りねえだろう」
 珍しく、彼は何かを言い淀んだ上で、そう言う。ルキーノの本来持つ宗教観を歪めた例えだったからだろうか。
「そうだな……頼む、ルキーノ。あいつを助けてやってくれ」
 男の髪色より鮮明な赤が、彼の口元で瞬く。
 何故だかルキーノは眉間の皺を深め、ああ、と短く答えると踵を返した。
「ジャンにそのツラ見せねえように、しゃんとしとけよ。――筆頭殿」
 背を丸めて格子をくぐる瞬間、僅かにこちらを見た顔は、逆光で表情は分からなかった。
 ルキーノが立ち去ると、不自然に途絶えていた通路の人通りが再び流れ始める。
 まだ体温が残っている気がする自分の瞼をなぞると、いつの間にか焼き付いていた悪夢の痕跡が失せていることに気付いた。いつもの、時間が消し去ってくれた感覚でなく、代わりに違和感があった。その事実に、思わず眉間を押さえる。
「オンナ日照りだからって……なあ」
 誰にも聞かせられない呟きは、昼を知らせるベルの音にかき消された。