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ブランケット

 ノックの位置も回数も、繰り返されて習慣になった動作で執務室に足を踏み入れた。
 一歩足を踏み入れた室内には、昼間の喧騒はなかった。当然だ。時間はじきに今日を終えようとしている。
 受話器を肩で支えたまま、器用にメモを取っている部屋に一人きりいた男のデスクに請求書の束を放る。それで俺の存在に気付いたのか、ようやく俺に視線を向けたベルナルドに唇だけで「頼む」と言うと、彼は訝しげな表情をした。
 前々から予定していた予算だったし、そもそもベルナルドはまだ紙の束を解いてすらいない。自分が今しがた投げたその請求書を確認しようとすると、ベルナルドは淀みなく電話口との会話を続けながら指先を近くのソファに向けた。
 そっちで待っていろ、ということらしい。
 珍しく店を廻る仕事もない。だから俺は命令された犬のように大人しくそれに従った。
 ソファに深く腰掛けてみたものの、テーブルに置かれたサーモスの中身をカップに注ぐ気にも、煙草に火をつける気にもなれず、天井のシーリングファンが回っているのを眺めた。
 普段は締め切った室内をもやのように漂う紫煙をかき混ぜているそれは、今は正しく空調として空を切っている。微かな稼働音と背中の方から聞こえるベルナルドの他所行きの声が心地いい。
 今日が終わる直前に、この一日で初めて立ち止まっていることに気づく。
 ワーカーホリックがどこかの誰かから感染ったのか、苦笑して目を閉じる。
 けれどこういうことは、初めてではない。何年か前にもあった気がした。“なにか”を考えたくなくて、逃げ回っていたことがあった。
 そのなにか、を考え始めて、がくっと身体が揺れた。
「起きたか?」
 はっきりとした意識が現実の声に殆ど無意識に目を向ける。隣に腰掛けたベルナルドが、俺のさっき渡した請求書を検めていた。
「……寝てたか」
「数分な」
 見終わった紙の束を揃えながらベルナルドは言って「朝一で口座確認しとけ」と付け足した。
 俺の用件はそれを聞いて終わったようなもので、さらに言うなら何も口頭で確認を取らなくてもよかったはずだ。呼び止められた意図が分からず、暫く無言でいるとベルナルドの方から声を掛けてきた。
「珍しい顔してるな」
 想定外の台詞に、言葉に詰まる。
「そうか……?」
「自分がどう見えてるか、自覚がないのも珍しい」
 俺の曖昧な返事にベルナルドは柔らかく笑い、組んだ腕に顎を乗せたまま俺の方を向いた。
「話し相手が欲しいか?」
 ベルナルドの言おうとしていることが分からず答えられないでいると、ベルナルドは首をかしげて質問を変えた。
「じゃあ、一人になりたいか?」
 今度は、答え方が分からなくなった。
「これが正解か」
 ベルナルドが立ち上がり、ソファの傾きが揺れる。俺の後ろの背もたれに両手をついたベルナルドが顔を近づけてきたので大人しく受け入れた。
 本当に正解だったかは分からないが、確かに低い体温の唇は心地よかった。一日をこの場所で過ごした様々な煙草の残り香に混じって、コーヒーの味と、それから微かな汗と彼が好んでつけている香水の匂いがした。
 俺の肩まで降った髪をすくい上げてそのまま抱きしめると、ベルナルドは抵抗せずに膝をつく。
「何があったかは知らないが、お前がそんな無防備な顔してたら、お兄さんは甘やかしたくなる」
 耳元でそんなことを言われ苦笑し、実際はもう大差のなくなった年の差をからかうベルナルドの首にキスをしながら言う。
「カヴォロ、おにーさんって年か。あと無防備ってあんた、人が部屋に入ってきたの気づいてなかった癖に」
「馬鹿を言うな。お前のノックを俺が間違える訳ないだろ」
 呆れたような声音は、言い切ったあとに妙な間をおいてから付け足された。
「……何年聞いてると思ってる」
 数秒間、居心地悪そうにしているベルナルドの顔を見てから、堪えきれない失笑が唇から漏れた。
「それで、他に言い訳はしないのか?」
 珍しい失言の仕方をした男の髪を撫でて問いかけると、諦めたような吐息が漏らされた。
「お前には無意味だって知ってる。なんでも自分にいいように取る癖に」
「オリエント急行に犯人は乗車しているのか? 当たり前だ」
 ベルナルドは呆れるだろうと思ったが、柔らかく笑うと俺の顔に触れて、額をこつりと当ててきた。
「心配くらいさせろ。お前だけの特権じゃないだろ」
 向けられたのは、ひどく優しい声だった。まるでただの恋人を振舞うような。
「……少し疲れてるだけ、だな。あんたには隠せないな」
 甘やかされている感覚に、ようやく足がぬるく浸った気がした。
 決して手を引くわけでもなく、一時腰掛ける場所を差し出してくれるような――それはマフィアが差し出す慈悲としては、余りにも児戯に近かった。
 けれど、だから俺はあの時殺されずにここにいるような気がしたし、いま隣にいることを許されているのかもしれない。
 だから、この男が欲しくなったのか。
「暫くここで寝ていくか? 起きるまで待っててやるぞ」
 身体を引こうとするベルナルドの腕を捕まえて、もう一度唇に触れるだけのキスをした。
「それは魅力的な誘い文句だ」
 そう言いながらもベルナルドを抱き上げるようにして立ち上がり、床に下ろして立たせる。
「寝るならあんたの私室でいい。抱き枕にさせろ」
 机に放置されていた請求書の束を拾い上げ、ベルナルドのデスクに放った。それはデスクの上を滑り、電話機にあたって停止する。
「抱き枕ですむのか?」
 子供の悪戯を見て叱るに叱れない親のような顔をしていた。
「あんた次第かな」
 俺は露骨な嘘を吐いて、早く、と年甲斐もなく甘えてみせた。