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デュプリケイター

 背を伸ばすと、皮張りの椅子がギシリと空間にヒビを入れるような音を立てる。
 押し付けた背中に汗でシャツが張り付いて、不愉快さに眉間にシワを寄せると側のデスクで軽快に鳴っていたタイプライターの音が止んだ。
「コマンダンテ、休憩を入れられては?」
 タイミングを計っていたらしい、ジョバンニの言葉にふっと息を漏らす。
「そうするか」
 眼鏡を外しながらそう答えると、安堵するようなため息があった。
「では、コーヒーを――」
 俺の部下たちは誰も彼もお節介焼きだと苦笑して、ヤニで曇った気がするレンズを拭き取る。
 カタカタとカップの触れ合う音がする中、窓に視線を向けると、ブラインドに遮られてるとはいえ、凶暴な日光が入り込むのが見えた。この空調を利かせている室内でさえ、じんわりと汗ばむほどのデイバンの夏の熱気に、外で仕事をしている連中に同情心を抱く。
 我が主は上の階で夏休みの宿題の居残り授業中で、ジュリオはその付き合いをしているから問題ないが、イヴァンは朝から鉄道交渉に出ている。
 つい一時間前にハポタン駅から定期連絡で暑さからの苛立ちだろう、普段の5割増しほどのファックを聞かされた。
 ……ルキーノは昨日の深夜まで、カポの代わりに接待だったか。午後からシマを回る予定だったから、そろそろ自宅を出る際の定期連絡が来るはずだ。
 ちらりと手首に巻かれた時計に視線をやる。眼鏡を外した曖昧な視界の中で、文字盤はまもなく午後の三時を示そうとしている。
「コマンダンテ……」
 部下の声に、机の上の書類を脇に寄せて視線を上げる。
「ああ、こっちに……」
 言いかけて、視界にあふれた鮮やかな赤に言葉が止まった。
「よう、ベルナルド。お疲れさん」
 ふわりとコーヒーが香り、半ば乱暴な仕草で机上にカップが置かれる。
「どうした、俺がここにいるのがそんなに意外か?」
 密かに笑う声に慌てて眼鏡を掛けると、声と色の主は間違いなくルキーノだった。
「お前のそんな顔を見れたなら、早起きした甲斐もあったな」
 ルキーノは手の仕草だけでジョバンニを部屋から追い払い、我が物顔で彼の座っていた椅子を引き寄せ腰掛ける。
「……ダイムでもやろうか」
 うんざりとした気分で告げると、ルキーノは外の熱気を潜ってきたらしいうっすらと濡れた髪をかきあげて笑う。
「お前のデスクのヘソクリでいい」
 ストリートのガキみたいに手のひらを上にしたルキーノに肩をすくめて、引き出しからピースダラーを投げつける。
「ガキの小遣いには高すぎるかな。こいつはどこから横領したんだ?」
 傲慢な男は手の中でころりと銀を転がしてから、ペリペリと表面を剥ぎ取って、中に隠れたチョコレートを口に放る。
「人聞きの悪い。イヴァンの差し入れだよ」
 同じコインチョコを口に入れてもう一度ルキーノを見ると、まるで苦いものを噛んだような表情をしていた。ささやかな仕返しは成功したらしかった。
 カップに口を付けて、体温だけでなくコーヒーの熱でチョコレートを溶かし、その染みるような甘さを味わう。
「アメの方がよかったな……」
 酸っぱいブドウに言い捨てるような若造のセリフに思わず口角を上げると、舌打ちが聞こえた。
「これから仕事に励もうって部下を虐めるのがあんたの趣味か」
「知ってるだろう?」
「……カーヴォロ」
 一通り仕返しし終えて満足すると、さっきのルキーノを真似て今度は自分が手のひらを差し出す。
 怪訝に眉をひそめた男に、わざと含み笑いを見せつけてやる。
「――昨日の領収書」
 数秒固まっていたルキーノは、また一つ舌打ちをした。
 大きく椅子を揺らして立ち上がった男は、ズカズカと大股で歩み寄って来ると、無言のまま不機嫌を絵に描いたような表情で数枚の紙を俺の手に投げつけるように放った。どうやら少々虐めすぎたらしい。
「あの気難しいお客人の相手は、まだジャンには難しいからね。助かったよ」
 労いの言葉にルキーノは目を細めて、何故か深々とため息を吐いた。
「あんたはそういう奴だよ。いいけどな、別に」
 唇の端に残ったチョコレートを親指でぐいと拭いながら言うその様すら色香があるのは自覚があるのか、ないのか。いや、あるのだろうが、同僚相手には無駄使いなのは無意識なのだろう。
 誤魔化しに小さく咳払いをして、渡された領収書を検めながら視線をそらす。
「何がだ?」
「菓子一つで俺を顎で使うのは、あんたくらいだって話だよ」
「パーパからお小遣いはちゃんともらってるだろ」
「その財布を握ってるのも、マンマじゃないのか?」
 苦々しい表情を隠さないまま、コーヒーを差し出した時と同じように手が伸びてきて、身構える間もなくぐしゃりと髪を掴まれる。
「何してる」
「……見てて暑苦しんだよ」
 そのまま肩に手をやると、くるりと椅子を回された。
「おい――」
 言いかけた文句は黙殺され、背後からルキーノの大きな手指で髪の毛をまとめられる。
 それは普段の仕事が丁寧な彼らしくない手つきで、八つ当たりな気がして黙り込む。
「週末空けとけ」
 高い位置で乱雑に括った髪をルキーノがぺしりと叩くと、俺が何か言うより早く広い背中は部屋を出て行った。
 入れ替わりに申し訳なさそうな顔をして部屋に入ってきた部下と視線を合わせて、通り過ぎていったストームに苦笑を共有する。
「コーヒーを淹れ直してくれ。仕事に戻ろう」
 一瞬ではっとしてから部下の顔に戻ったジョバンニのマフィアらしくない幼さを咎めずに、新しい命令を与えた。

*

「マンマ、ご褒美ちょうだいー」
 窓の外が暗くなる頃に、ようやく宿題を終えたカポが、今朝より何年か未来から来たような顔でぐったりと俺の机に突っ伏す。
「はいはい。何がいいのかな、バンビーノ」
「睡眠時間」
 机に向かって即答された言葉に苦笑して、その金髪を優しく触れるように手のひらを置く。
「それはもう五時間ほど、我慢してもらえるかな」
 俺の言葉への返事に漏らされた呻き声に、ぽんぽんとその頭を軽くもう一度撫でると、顔がこちらを向いて甘えるように手に擦り寄られる。
「ジュリオは?」
 野良猫のように目を細めているジャンに問いかけると、あー、と煙草に焼けた返事。
「あいつは顧問に呼び出されて、下の会議室。役員サンが何かご用事みたい。俺の部下たちは仕事熱心でありがたいわー」
 金の猫を撫でながらそのありがたい言葉を聞き、きっと聞いていたらちぎれんばかりの勢いで尻尾を振るジュリオの姿を想像してふっと笑った。
「頑張ってる上司を見ていれば、部下は張り切るものさ」
 そうやって飴にもなりそうにない労いを投げかけると、ジャンは俺の心を読んだかのように目を開け、そっと仕返しのように俺の髪を下から掻き上げるように撫でてくれた。
「じゃあこれは、俺に触発されて頑張った結果? レイプでもされたのかと思ったケド?」
 触れた手に、括られたまま飛び出した髪に気づいて、ルキーノにされたまま仕事に集中していたことを思い出した。
「まー、俺のダーリンにそんな悪戯出来る奴なんて、一人しか想像つかねー」
 昼過ぎに休憩をしている間、すっかり弄り回された髪を忘れていたことに失笑して、大仰に肩をすくめてみせた。
「そんな悲しいこと言わないでおくれよ、ハニー。俺を無茶苦茶に出来るのはジャンだけだよ」
 いつも通りの軽口を叩きながら、下世話な笑みを浮かべているジャンから視線を外して髪を解く。
 ジャンは身を起こしながら、ニヤニヤと小僧らしい笑みを浮かべている。
「浮気の証拠隠滅に失敗するなんて、らしくないわネ。今日は早く帰って寝たら?」
 その指先をもってピシッといい音で額をはじかれた上に、追い詰めてくるカポは、その笑みのまま立ち上がる。
 誤魔化しに首を振って絡んだ髪をばらつかせると、不意に喉を汚していたコーヒーと煙草とは違う匂いがした。
 ジャンの背中と肩に揺れる金髪の鮮やかさを見てなお、残り香を残していった男の鮮明な赤を思い出す。
 焼けるような罪悪感を覚えて、もう一度髪を掻きむしりそうになった。永久機関になりたくなくて、既のところで手を止めた。
「どした? 変な顔してるぞ?」
 振り返ったジャンに曖昧に笑い返して首を横に振った。
「……あんま難しい顔してると、前髪が」
 言いかけたカポの唇を指先で止めると、ジャンはそのまま肩を竦める。
「俺の頭を悩ませてくれるのは、あの馬鹿だけじゃないさ。……――ジャン」
 意図的に、にっこりと微笑むと、目に見えてジャンの表情が強ばった。
「セカンド・カポが溜め込んだ宿題は、まだあってね? さて、一緒に胃が痛くなろうか」
 その腕の中に新しい封筒を押し込めると、新しい宿題と俺の顔を見比べてからジャンは白旗を上げた。
「執務室にモドリマス」
「ボスが理解ある人間で助かったよ。これ以上、役員の小言聞かされたら、キャパオーバーで右から左の記憶喪失になっちまう」
「それはそれでいいんじゃねーのかな……」
 ぽんとその怯える両肩を叩けば、ボスは地の底まで届きそうな深い深いため息を零して、出口に回れ右をした。
 部下の代わりに扉を開くと、もう一つ憂鬱なため息混じりにジャンが言う。
「まあもしそうなったら、マドレーヌと紅茶用意して見舞いに行くよ」
「そりゃありがたい――」
 自分の髪が揺れて、またあの香りがして目を細めた。忘れられれば楽な事の方が多い気もするけれど――とそれは言葉にはしない。
「……でも、それより」
「ん?」
「いや、なんでもない」
 それ以前に、ジャンの金色も、あの男の赤色も、こんなに染み付いてしまっているのに忘れられるはずもない。
「それじゃ、またあとで届けにくるわ」
 軽いハグと共に頬に口づけ。いつも通りに離れたジャンが、一瞬の間の後ににいっと笑った。
「――うちのドロシーが記憶喪失になったら、焼き菓子と紅茶より、臆病ライオンの首根っこくわえて持ってきてやるワン」
 そして、キャンキャンと犬の鳴き声が聞こえそうな足取りの軽さでジャンは走り去る。
「やられた……」
 遅すぎる呻き声と共に思わずぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて、俺は苛立ちを新たにすることになった。