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ストロベリー・ジャムのケーキの話

 どうやら人間は、挫折を繰り返すと諦めばかり上手くなるらしかった。
 慣れを順応と取ればそう悪いことでもないと思えたが、目の前の男は不機嫌さを隠す素振りすら見せずに俺を見下ろしていた。いつだったか、俺が季節外れの風邪を貰った時も、そんな顔をしていた。
 ほんの近くにある光源が男の影を天井に映している。ぼんやり見つめていると打ちっぱなしのコンクリの白い天井に、黒く水が染みるようにじわじわとその影が広がっていくかに見えたが、実際は天井は真っ暗の闇に消えたりはしなかったし――むしろ俺が背にし、今もただ体温を奪っていくだけの同じコンクリ床の方が"そういう風"に見えただろう。
 そういう幻覚を見る程度に俺は血を流し死にかけていて、多分もう助からなかった。
 けれど、体感ではほんの数分前まで、幾つか手を考えてるうちに諦めた俺の元に駆けつけたのは、死神でなく同僚であったけれど。まあ、遅れはしても、先客も訪れるのだろうが。
 首を持ち上げようとしたら、同僚が膝をついた。水音がして、男のスーツが台無しになった事を心配した。
 そういえば、風邪をひいた時もついていてくれた男に、うつることを心配したら怒られた。だから、ああ、と言ったところで先を口にすることはなかったので、叱られることはない。
「ベルナルド」
 ひどく柔らかく呼ばれて、目の前の男がただの同僚でないことを思い出した。家族で、と建前の話ではない。有り体言ってしまえばソドムの仲だ。知られれば同僚の一人がファックシット俺たちを罵倒したかもしれない。どうやら無事に墓の下まで隠し通せそうだったが。
 酒の勢いでなし崩しに始まった関係だった。そうやってベッドを共にするようになって五年から先は数えるのをやめた。昔尻を狙われていたらしいから(まあゲイに放って置かれなさそうなタイプなのは俺にだって分かった)筋金入りのフォビアだった癖に、煽って誘ったら思いの外簡単に手元に落っこちてきた。その段になって、俺の方がうろたえたが、転げ落ちてきた方はもう諦めきっていた。そうだ、この男だって諦めが上手いはずだった。妻子を亡くしても、この俗まみれの稼業に戻ってこれる程度には。だから、やはり今日も今更になって哀れになった。
 ルキーノは恋人ではなかった。たぶん、おそらく。違ったはずだ。そうなっていたら、死の間際に恋人に優しくもなれたし、もしくは諦め悪くあがけたような気がする。もはや想像しか出来ないが。
 青褪めた顔をした男が、俺の胸に貼り付いたシャツを震える手で剥いだ。数秒見つめていたが、処女を宥めすかす手つきでルキーノは俺の胸元の合わせを戻した。
 痛みがあれば苦痛に悲劇的な別れになにかそれっぽい台詞も吐けたのかもしれない。不幸にも、いや幸いか、打たれた薬のせいで爪があらかた剥がされた指先にもなんの感覚もなかった。自分が死ぬ時に、現実味が薄いのは、諦め云々よりそのせいもあったかもしれない。
 今にも死にそうな顔をしているルキーノはヤクザの癖に、ジャンよりもよっぽどまっとうな人間性をしていたように思えた。派手好きで体面ばっかり気にして、一見強面の癖に驚くほど人懐っこく笑うから、そういうところはジャンに似ていて、けれど、やっぱり違った。だからこそ、こんな場に立ち会わせることに気が引けたので、苦笑する他なかった。
「お前は……」
 そう言いかけたルキーノは俺の手を握ろうとして、爪先の有様に気づいたのか躊躇して結局手首を掴んだ。じわりと、体温が暖かくてセックスでのことを思い出した。こんな時に。
 身体だけの関係の癖にいつだって、今と同じようにこの男は優しかった。嘘をついた。セックスは時折乱暴だった。二重に嘘をついた。恋人同士のようなセックスを望む男に、レイプのようなプレイをねだっていたのは俺の方だった。いつだって、付き合わせていたのは俺の方だ。
 本当は最初から、恋人だったのかもしれない。そうだとしたら――やはり、先に死ぬのはこいつには酷だと思った。けれどもう、何もかもは間に合わない。
 じっと顔を見つめていたら、泣き出すかとも思ったがそうはならなかった。俺自身も泣く気にはならなかった。嘆く気にも。
「死ぬにしても、お前のあとに死ぬつもりだったんだけどな」
 告げてみれば、死に際の人間とは自分でも思えないほどはっきりとした言葉になった。あまりにも普通に喋れたので驚いたが、別にタチの悪い夢でもなんでもなく、自分の声が耳に入るのが妙に現実じみていたので死ぬ心構えがついてしまった。
 誰のものか分かりもしない指紋で汚れた眼鏡ごしにルキーノの朱い虹彩をじっと眺めた。そんなことをしたのは初めてだったかもしれない。素直にきれいだと思った。
 同僚か家族か恋人か、名前をつけることが出来る関係だったかもはや答えをつけることが叶わないなりにルキーノを悪からず思っていたので、"もう一度"同じ目に合わすつもりはなかった。傲慢だったが、せめてそれだけは伝えたかった。
 恋愛映画ならここで愛していたよとか、来世の約束をするなりするべきだったかもしれない。脚本ならベタにそう書いていた。言うべきことを失って黙り込んだ俺の元に、死神は遅刻したままだ。タイミングよく死ねるのも、映画の中だけだろう。
「寒いな」
 思わずぼやくと、ルキーノはすぐにジャケットを俺の胸に掛けた。それから、今度こそ躊躇なく俺を抱き上げた。重くはないだろうが、上背だけはある自分を器用に抱き起こしてみせた男に感心した。ぼちゃぼちゃと腹の中身がいくらかどこぞへ零れたが、ルキーノのジョック力と案外死ねないことに感動してそれどころじゃなかった。
 濡れきった背中が床から離れたお陰で、寒さはなくなった。
 ルキーノの胸元にため息をついて、息は吸えなくなった。
 血混じりに許された相手の体臭の交じる甘ったるい匂いはセックスのそれとケーキに似ていた。