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赤い花

 目の奥が痛むのは、吐き気を伴う。
 その頭痛に悩まされ始めたのは、数か月前からだった。
 幹部会の直前、頭の裏側から眼球をじわじわスプーンでつつかれるような痛みに左目を押え、フロアのソファで痛みに耐えていた時にベルナルドに声を掛けられた。
 アスピリンを持っているかと問いかければ、あっさりと彼は内ポケットから小瓶を取り出し錠剤をくれた。
「目が痛むなんて、花でも生えるのか?」
 ベルナルドは冗談めかしてそう言って、俺も馬鹿を言うなとその時は返した。後になって知ったが、それは冗談でなかった。
 それから数日後、朝目覚めると俺の左の目尻から青々とした若芽が芽吹いた。
 ベルナルドはそれを見て、ああ、だろうと思ったよ、と言った。

 目の奥で花が成長している時に、頭が痛むらしかった。
 初めてあの痛みに襲われた時と同じように深くソファに腰掛け痛みに耐える。もう多少の痛み止めでは効果がなくなっていたので、じっとやり過ごす他なかった。
「何か飲むか?」
 隣で俺が持ってきた書類に目を通していたベルナルドが問いかけてくる。
「いや……吐きそうだ」
 そう答えるとベルナルドは一瞬こちらに視線をやってから、そうだったな、と静かに言う。それから立ち上がって、俺の顔に手を伸ばした。
「この蕾、そろそろ咲きそうだな」
 柔らかだった薄いグリーンの茎は細かい棘が付くのと共にしっかりと芯を持ち、瞬きする度に揺れる。正面の壁面に張られた鏡の中で、その先に真っ赤な蕾が付いているのも知っていた。
「……咲いたら、どうなる」
 痛みに掠れた喉で言うと、ベルナルドは何故かその蕾に口づける。そしてまるでその生まれようとする花に言い聞かせるように言った。
「言葉を、ひとつずつ忘れるんだ。そして二度と思い出さない」
 何かを知っていて深くは教えてくれない男の言葉に、ぞわりと背筋が泡立つ。
「でも、忘れたいことの方が多いんじゃないのか?」
 何もかも見透かしたような普段通りの声音は、いつも感じる苛立ちより先に恐ろしさを感じた。違う、と否定できず、ただ腕を掴む。
「――なら、抜いてくれ」
 俺を見下げているベルナルドは意外そうな表情を浮かべて、けれどまたいつもの顔を貼り付けると俺の左の瞼を指でなぞる。
 ベルナルドの薄い唇がほら、と動いたのが分かった。
 正面の鏡の中で呼吸するように赤い蕾がほどける。
「あ……――」
 頭の中で、パチンと泡が弾けるような音がした。
「何万語のうちの一つのどれかなんて、逆にどれを忘れたかなんて分からないだろう?」
 慰めの色をしたベルナルドの声は、けれど少しも救いにならなかった。
「ベル……ベルナルド…」
 わからない場所が抜け落ちてしまう感覚は、目の前に事実を突きつけられてなお理解できなかったあの時によく似ていた。ベルナルドを掴んでいた手が、ガクガクと震える。
「ああ、これを抜くんだったか」
 ベルナルドはそう俺の耳元に囁いて、花に手をかけた。目の前でベルナルドの手指が細かい棘で血に塗れる。
「ゆっくりしてやるからな」
 荒く息を吐きながらベルナルドを見ると、レンズ越しの目が細められた。酷く、優しく。
 肩に手を置かれ、言葉の通りゆっくりと花を引かれる。
 はらりと咲いたばかりの花びらが一枚、自分の膝に溢れるのが見えた。
「ァ、――、は…ベル、ナルド、」
 頭の中でぶちぶちと、はっきりとした音が鼓膜を中から震わせる。音が聞こえる度、右の視界が途切れた。左はもう完全に見えない。
「だ、だめ……やめ、ろ」
 暗がりにいるような片方だけの視界で、手を止めたベルナルドに縋る。
「なにがだ?」
 また、何枚か花びらが落ちた。死にかけたこともあるが、それとは違う感覚がする。
 身体だけそのままに、中身が失われるような――。
「左目はどうせ見えなくなる。なら、俺がもらってもいいだろう?」
 俺が何か言うより早く、血で濡れた指でベルナルドは俺の傷をなぞって、笑った。
「……あんた、何を知ってるんだ?」
 ベルナルドは口を開きかけたが、まるで自嘲するように唇を歪めて俺をそのままソファに押し倒した。
「さあ」
 曖昧な呟きと共に、再び視界のない左側にベルナルドの手が動いた。
「ヒッ――」
 引き抜かれる感触に、また頭の奥で何かがちぎれる音がする。勝手に手足が痙攣するように跳ね、それでもベルナルドは手を止めない。
 左目から涙か体液が自分では確認出来ないものが溢れているのに、シャツの胸元を濡らし始めてようやく気付いた。
 ただ痛みに耐えベルナルドのジャケットを掴んでいると、ふっと痛みが緩んだ。
「ルキーノ、少しだけ、な」
 ベルナルドが、ベッドでするように唇を重ねてくる。
「ン、ぅ…ベルナルド……」
 どうしてそうされるのか分からないまま唇を受け、まるで眼球を引き抜かれるような痛みだけ受け入れた。
「――ふ、ァ…」
 ブツリ、なにかが引き抜かれて意識が遠のいて、記憶は途切れた。
 鈍った右目に、茨の絡んだ同じ色をした目が胸をこぼれ落ちていくのが見えた気がした。