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ティンダロスの猟犬

Sep.3.1936 (Thu.)



 見上げれば輝く星が、紺青の空に白い穴を幾多にも開けている。
 郊外の空は街中より星がよく見えた。まあ、たまの休暇に見る、夜の海ほどではなかったが。
 強く残った記憶のものと、倉庫の壁に背をつけたまま見る夜空と比べる自体が間違いか。
 昔、絵本だかダイムノベルだかで、あの穴から雨や礫が降るのだと読んだ記憶がある。今思えば馬鹿馬鹿しい話だが、あの雨漏りしている向こう側には何があるのかなんて考えた幼少期もあった。
 ガキの頃を酷く遠くに思い出すようになったのは、過去に親になった経験というよりは、あいつらを間近で見守るようになったからかもしれない。
「……イヴァンの奴、来たか」
 往来の少ない倉庫向かいの道路を通過した車の気配に、殆ど独り言のように問いかけると、さっきからじっと動いていない男から、ああ、と返事があった。
「予定通り。いや、少し早めかな」
 隣にいたベルナルドが腕に巻いた古臭いオメガの時計を覗き込みながら、どこか楽しそうな声で言う。
「何で俺たちがわざわざ……」
「下にやらせるわけにも行かないだろ?」
 分かりきっていて口にした愚痴をわざわざ上塗りしてくる男にうんざりとした気持ちで舌打ちし、俺はそいつの肩ごしに同じ方向を見る。
 視線の先には、夜の湖を滑る白鳥にも似たメルセデス。静かに停車した高級車に、不釣り合いなチンピラ風の男が駆け寄っていく。
 それが我らがカポのお忍びの姿だった。できるのなら、いますぐ飛び出して行って着替えさせたいところだ。それが表情にも出ていたのか、ベルナルドが牽制するような視線を送ってきたので、返事の意味で睨みつけた。
 自分のことは棚に上げてなんだが、まったく過保護な男だ。大体、首根っこを捕まえたところで、ジャンは「俺はチンピラ上がりだからこの格好の方が楽なんだよ」と脳天気に言う姿しか想像できたので、もう一度舌打ちをすることになった。
「ここまでやってやる必要もないと思うがな。あいつらがガキなわけでも、俺らが保護司でもあるまいし。イヴァンはバカだが、尻尾を掴まれるバカではないだろ?」
「それはそうだけどな」
 こそこそと会話をしている俺たちに少しも気づかず、運転席に向かってジャンが何事か話しをしている。よくは見えないが、いつも執務室にいるような軽口を叩いているのだろう。
 護衛兼、見送りの仕事の終わりに身体を引っ込めて再び壁に背をつけると、同じように肩の荷を下ろしたベルナルドと目があった。
「二人で休暇に、なんて中々だしてやれないからな。今回が最後にもなりかねない」
 無駄に重苦しいことを口にした男に、こいつにもう少しイタリア人らしい楽観さがあればと呆れる。
「あんたはその悲観主義をもうちょっとなんとかしろ」
 言いながらポケットから取り出した煙草を勧めると、ベルナルドはケースと俺の顔を見比べてから、グラッツェと呟き手を出した。
「ただの現実主義のつもりなんだがな」
 ベルナルドが普段吸わない紙巻を咥えているところに、さっきスタンドで押し付けられた紙マッチの火を差し出す。
 一瞬、暗闇に慣れた視界に黒い穴を開ける炎が手元から移り、それが消えない内に自分が咥えたものにも火をつけた。指先を焦がそうとする火種を投げ捨て、地面に落ちる前に消えるのを見届けると、一匹の薄汚い犬がこちらに近づいてくるのに気付いた。
 人懐っこそうな犬は耳をピンと立てて様子を伺っていたので、しゃがみこんで手を差し出す。上目遣いの犬の目を見つめ返すと、警戒心を解いて近づいてきたので身体を撫でてやった。毛色は灰色にも見えるが、汚れているだけで白い毛並みなのかもしれない。どこか、昔のジャンを思い出させてくれるそいつに、小さく笑う。
「……野良犬じゃないのか」
 急に、水を差すような声音で言葉が降った。
 まあ確かに野良なら危険なのだが、雰囲気から噛み付くような犬には見えなかった。
「どっかの飼い犬だろ。ほら、首輪が」
 不名誉を打ち消すように犬の頭を撫で、首に巻かれた黒い首輪をなぞって声のした方を見ると、ベルナルドは意外にも暗室の捕虜を見るような目をしていた。
「ラッキードッグはあんなに愛でてるのに、犬は苦手なのか?」
「――ジャンは野良犬ではないよ」
 冗談を真面目に受け応えたベルナルドの様子を不審に思い、立ち上がる。
「ん、まあ動物全般得意じゃなさそうだな、あんたの場合は」
 俺が微妙に返答を探り探り選ぶと、ベルナルドははっとしたようだった。
「お前は好きみたいだな。ガキの頃に飼いでもしてたか?」
 取り繕うように言った男に違和感を抱きながら、ああ、と答えた。
「どんな犬だ?」
 会話が続いたことに安堵した様子で、ベルナルドは先を促してきた。
「もうちょっとデカイ犬で、耳が垂れてるやつだな。家を出るまでは一緒に……」
 誘われるまま、そこまで言ったが、聞いてきたはずの男の表情に先を続けられなくなった。
 例え苦手意識があろうとも、感情を表情から追い出しきれていないなんて、随分とらしくなかった。昔の記憶がちらりと脳裏を焼く。俺が始めて収監された時のことだ。あの時も、ベルナルドはこんな顔をしていた。
「そんなに嫌いか?」
「いや……?」
 そう口では否定しながら、明らかにぎくりとした様子に肩をすくめる。
「顔に分かりやすく書いてあるぞ」
「………悪い」
 躊躇して、結局言い訳もなく謝るベルナルドのツラは、嫌悪というより恐怖が微かに滲んでいた。マフィアの幹部が愛玩動物相手にするツラではない気がしたが、過去に“噛まれた”ことでもあるのだろうと勝手に納得した。
 わざわざ掘り返そうとは思わなかった。隠しきれずとも口にはできない人の事情なんていくらでもある。そしてその大抵は容易に踏み込んでいいものでもないだろう。
「変な話をして悪かった」
「いや――帰ろう。仕事が山積みになってる本部が待ってる」
 いつの間にか犬も白鳥もいなくなっていて、ベルナルドの言葉に曖昧に頷いた。
 連れ立って少しの距離を歩き、倉庫の裏にひっそりと駐車していた地味なフォードの運転席に当然のように乗り込んだベルナルドを追って、後部ではなく助手席に乗り込む。
 本来なら俺が運転するべきなのだろうが、ベルナルドは昔から他人の運転より自分の運転を好んでいた。
「二人きりなら、アルファでも良かったんじゃないのか?」
 おかしくなった空気を打ち消すように、あの赤い車を話題に出すと、ベルナルドは一瞬きょとんとしてから、表情を緩めた。
「あれは目立ちすぎる」
「確かにな。脱獄向きじゃない」
 わざととはいえ、昔の話をすると生ぬるい懐かしさを覚えた。それはベルナルドも同じだったらしく、軽やかに笑う声に、胸に突っかかっていたことを聞く気になった。
「ところで」
 わざと言葉を切ると、意図した通り、男の視線がこちらを向く。
「うん?」
「あんた、俺のことを好きだろう?」
 数秒の間は、意識的に開けたにしては長すぎたので、俺は確信することになった。
「どういう意味でだ?」
 ようやく聞こえた声は表情と共に鉄壁を崩さずにいるのに、明らかな墓穴を掘るベルナルドにため息を吐いた。こいつを「最後のところで詰めが甘い」と苦笑ながらに評していたのは、ジャンだったか。
「わざわざ聞き返すってことは、そういうことだろ? 今日は本当に、らしくないな」
 今度こそ黙り込んだ男は俺の目をじっと眺めてから、どうにか空気を取り繕ってなんでもないようなことのように返事をした。
「……いつ気付いた?」
 観念した男が答えを差し出したので、わざと口元の笑みを浮かべる。
「最初は、ジャンたちを見る目が気に食わなかったから、だな」
 俺がそう言うと、ベルナルドはきっと俺の言葉の意図するところが分からず、怪訝な表情を浮かべたので、「薄々な」と付け足した。

 俺が担っている組の看板役、広告塔、という仕事の性質は、自分が一番よく分かっているつもりだった。だから、視線には人一倍気を使っていた。それは自分に向けられるものでも、組の誰かに向けられるものでも。
 誰がどう他人を見るか。それを知ることや方向や力加減を操作するのも俺の仕事の一つだったので、ジャンとイヴァンの変化に気づくのは早かった方だろう。
 もっともあの様子だったので、身内なら気づくなという方が無理だが。
 イヴァン本人のセリフを借りるなら、ソドムの仲ではあったが、意外性が勝ったのか、俺は二人にさして嫌悪を抱かずに――と言うより、イヴァンの顔から険が取れる瞬間や、年相応の幼さを見せるようになったのが俺には好ましいものに思えて、二人でいる結果ならばそれがベストで、祝福されるものだろうと思った。
 同時に、不安の種もあった。
 ジュリオはジャンが離れないという確信があれば安定していたようだった。問題は、その分かりやすいワンコより、気難しく考えすぎて抱え込むばかりの危うい男についてだ。
 俺の心配を他所に、俺と同じようにジャンたちの変化に気付いただろうベルナルドも、表面上まったく変わらなかった。
 それで元々、羨望に諦めに似た感情が乗っかっているのは知っていたので、相手の感情がどのベクトルに向いていても変わらない質なのだろうと、俺は納得した。変わらず、ジャンへの気持ちを抱えていくつもりなのだろうと。
 所詮、他人事だ。俺が気を揉んだところでベルナルドには意味がない。俺には不毛だと思えることが、きっとこいつにとっては救いなのだろう。そう思った。
 だから、ベルナルドの視線が諦めからではなくはっきりとした親のようなものに変質していることにある日気づいて、疑問を感じたのだ。
「確信を持ったのは今さっきだ。表立ってわざわざ人の過去知りたがるタイプでもないだろ。裏でコソコソ調べるのは、元々あんたの仕事だろうけどな」
 仕事にしてもプライベートにしても、隠し事を完璧にできるくせに、時折俺にだけその片鱗を見せるのは、俺に心を許しているからというよりは、共犯者にしたがっていると感じていた。
 それがどの感情から来ているかなんて気にもしなかったが、思いがけず自分に好意を向けているのだと知ることになって、興味が湧いた。だから、問い掛ける。
「あんた、ジャンが好きだっただろう」
 ベルナルドは諦めた顔でもう相槌も打たなかったので、勝手に続きを口にした。
「冷静沈着で有罪を告げられた時にさえ、お綺麗な顔で対応してたあんたが、護送中は明らかに怯えてた。それなのに、柵の向こう側についてあいつが迎えに来たとたんあのツラだ。気づくなっていう方が無理だろ」
「お前の観察眼には感服するよ」
 本心かも分からないお世辞を並べて、ベルナルドは居心地悪そうにシートに座り直した。
「あの二人を見てて、さみしくなったのか」
 冗談めかして言うと、ベルナルドが思ったより苦々しく表情を歪め、首を横に振る。
「お前の目には、そこまで頼りなく見えるか?」
 そういうわけではなかったので、俺は少し話題を変えた。
「少し意外なんだよ。女にも、不本意だが男にも、俺は惚れられるけどな――」
 堂々と言い捨てると、ベルナルドは僅かに張っていた緊張を緩め、口角を上げる。
「でも、あんたがってのはな。嫌ってただろ、昔は」
 組織に入りたての頃、鼻につくことばかりを口にする年上の男に楯突いてばかりいた過去を思う。自分で言うのもなんだが、生意気放題だった無鉄砲さを思い出せば、嫌いたくもなるだろうと自分でも思う。そうでなくても、ベルナルドのような人間からすれば、俺みたいなタイプは扱い辛いように思えた。
「そりゃ、お互い様だ」
 言われ、隠し事だらけの警戒心丸出しの神経質な男だった頃のベルナルドの姿が脳裏をよぎった。結局、思い返せば互いに、随分と若かった。
「……まあ、そうだな」
 答えると、思い出話から懐かしい匂いがした気がした。あの頃、まだ甘っちょろかった自分を殴りつけて現実を見せてくれたのは親父と、それからベルナルドだった。その事実を語るのは癪なのでこれからも口にはしないが、記憶は安物の酒に似た、棘のある甘い芳香をしていた。
「丁度、今のイヴァンとジュリオみたいな関係だった」
 ベルナルドからグラスに継ぎ足された過去の姿に、今度は顔をしかめることになった。
「アレ、時々あいつらの喧嘩してる横で、親父が俺達を微笑ましい目で見るのやめてくれねえかね」
「フハハ、それは諦めろ。俺も同じ気持ちだ」
 同じ時間の話をして緩んだ空気の中、運転席の男は深々とため息を吐く。
「…………惚れたからって言って、必ず触れる必要もないだろう」
 離れかけた話題を、ベルナルドは自らまるで感情を殺す前の下準備のように引き出してきた。
「さすが何年も指くわえてみてた結果、かっさらわれた男の言葉は重みが違うな」
「流石ジョックだな。ナードをからかうのも堂に入ってる」
 自尊心をつついても軽くかわされ、代わりにベルナルドはタイプライターのキーを叩くようにハンドルを幾つかの指でたどった。
「勘違いだったら笑い飛ばしてくれていいが、こうやって聞いてくれるってことは、まんざらじゃないんだろうな」
 カツカツとハンドルの革張りを波のように順番に弾いていた指が立ち止まり、ぽつりと、色の薄い声が落ちた。
「知られたら、お前には軽蔑されるかと思っていたよ」
 ベルナルドは薄闇の中で、まるで会計用の書類を一枚だけなくしてしまった時と同じ顔をしている。俺がさせている顔だと思うと、微か心が波立つ。
「――まあ、拒絶したいなら知らないフリしてる方が、遥かに楽だからな」
 フォローするように返事をしてから、もう少し若い頃の俺ならそうは答えなかっただろうと思い当たって、苦々しい気分になった。
「……俺ももう、若くないな」
 うんざりとして言うと、色々と察したらしいベルナルドが表情を変えて、くすくすと小さく笑う。
「誕生会、再演してやろうか」
「やめてくれ」
 派手に祝われた三十路の誕生日を思い出し、つられて笑い、顔を伏せればお互い言うこともなくなって沈黙が訪れた。数年前には居心地が悪いだけだったベルナルドとの間の静けさが、今ではこんなにも当たり前のものになっている。
 顔を上げれば、こちらを見ていたベルナルドと視線がカチ合った。暗がりでもよくわかる、執務室にいるのと変わらない顔を見ると、こいつが俺を好きだという事実にまだ半信半疑で、はっきりと――確かめたくなった。
 自分がわざわざ暴き立てた理由の在り処も。
 隣の席でキーに掛けられたままだった手首を掴み、身体を乗り出してシートに押さえつけた。
 ベルナルドは困惑こそしていなかったが、どこかぼんやりとした目を俺に向けて言った。
「言えた義理はないのかもしれないが、やめとけ」
 離れた街灯の明かりが男の眼鏡が反射して眩しい。だから自然にそれを取り上げて、ベルナルド自身の胸ポケットに差し入れる。普段は見えない色が目に入った。
 俺好みの知的なグリーン。冴えたブルーもいいが、薄闇の下ではこっちの色の方がいいと初めて知った。女ではなく、男のそれだったからかもしれない。
「……だったらもっとうまく隠しとくんだったな」
 初めて触れた男の唇は不健康にかさついていて、まるで色気がなかった。









Sep.10.1936 (Thu.)



 午後に入って、朝から鳴りっぱなしだった電話のベルがようやく途切れた。それを合図に、俺は決算用の書類を作るため、仕事熱心な電話機と同じように朝一で座ったっきりだったソファから腰を上げる。
 いつもの執務室には丁度、ベルナルドの部下の姿もほかの幹部の姿もない。当のベルナルドと言えば、デスクの目の前に立った俺に気づいているはずなのにタイプライターを叩く手を止める素振りすらない。
「あれから一週間だぞ」
「ああ、無事ジャンもイヴァンも休暇を終えて、世は事もなし。何か問題でも?」
 ベルナルドは俺を一瞥して、僅かに口角を上げるとそれでまた仕事に戻る。生まれてこの方、キスを交わした相手にこんな扱いを受けたのは初めてだ。
 この男らしいと言えば、らしいのかもしれないが、気に食わないものは気に食わない。
「キスして終わりって、ロウスクールのガキじゃあるまいし」
 俺が文句を垂れながらジャケットからシガーケースを取り出すと、もう一度ベルナルドの視線が上がってくる。
「お前、俺とどうにかなりたいのか?」
「どうにかはなってるだろ。もう」
 シガリロを咥えながらそう返すと、ベルナルドはまるで初耳だという表情を浮かべた。鈍感ともまた違うが、俺相手にもジャンに向けていたような愛の注ぎ方をするつもりだったのだろうかと呆れる。
「大体、お前、俺相手に勃つのか?」
 色気も何もない、冷静な問いかけを俺は鼻で笑う。
「男に勃つのか確認させろよ」
 咥えたシガリロを行儀悪く唇だけで持ち上げながら言うと、職場で猥談などもってのほかだと言いたげに冷めた視線を向けてきた。
「人を好奇心の実験台にするのは、どうなんだ」
「あんたに正論言われると妙にいらつくな」
 俺の苛立ちそのままの言葉を受けたベルナルドは、派手なため息を一つ吐くと、俺の口から火をつけないままだったシガリロを取り去り、ちゅ、と可愛らしい音を立てて口づけた。
「そのうちな」
 それだけでまた椅子に座り直した男を見下ろしながら、こいつは釣った魚には餌はやらないタイプかと気づいた。いや、やってるつもりな分タチが悪いタイプだ。
「“具体的に”」
 部下や俺達の出した書類にケチをつける時のベルナルドの言いざまを真似ると、男は鼻で笑った。
「今積んでる仕事に一区切りがついたらかね。俺は若くないから察してくれ」
「そしたら次のって言い出すんだろ。請求書の引き取り渋る時と同じ手管じゃねえか」
「いや、焼却炉行きとどっちがいいかくらいは選ばせてやるぞ?」
 いっそ清々しいほどの対応だ。このツラと地位にして、オンナにも逃げられるはずだと得心がいく。
 たったそれだけの会話に、俺は午前中に詰めすぎた仕事の分もあってどっと疲れた。煙草を咥え直す気分にもなれずに、デスクに手をついて深々とため息をついた。
「おい、集中力が切れた。どうしてくれる」
 俺の失望をよそに、肝心のベルナルドは俺にそう文句をつけてくる。
「知るか。休憩でもしろってことじゃねえのか」
 適当に返事をすると、男はインクのシミがついた指をこすり合わせながらふむ、と頷く。
「休憩、な……」
 そう呟いて、ベルナルドは俺を見定めるように上から下まで視線で舐める。
「勃つかどうか試したいなら、手っ取り早い方法がある」
 指のジェスチャーだけで俺を呼んだので、大人しく従うとベルナルドの席に入れ替えのように座らさせられた。
「――ベルナルド?」
 唐突に俺の足元に跪いた男を訝しがると、そいつはしぃ、と悪戯をしかける子供のように唇に指を当てて、その仕草に黙り込んだ俺に満足した顔をすると、ベルトに手を掛ける。
「抜くだけなら五分で済む。まあダメなら三分で済むが。部下が戻ってくる前には終わるだろ」
 冗談めかしながらベルナルドはなんの躊躇もなくベルトを緩め、スラックスの前立を開けてくる。
「五分ってどこの早漏だ」
 さっきまではお綺麗なツラでこっちの感情を一インチも考慮する素振りすらなかった癖に、今は玩具を見つけたガキのような――というよりそのものか。
 おっさん相手に振り回されているな、とどこか冷静な頭が警報を鳴らす。
「お前、やっぱりこっちも凶暴そうだな……」
 俺が思案していることなど少しも気づかず、下着から引きずり出したものをまじまじと眺めながら言う男に、呆れに肩をすくめる。
「なんだ、想像してたのか?」
「お前、惚れた女がどんな乳ぶら下げてるのか、興味湧かないタイプか?」
 下卑た表情に、ああ、そう言えばこんな顔もする男だったと思い直す。
「カヴォロ。レイディのそれと一緒にするんじゃねえ」
「なに、大差ないさ」
「俺にそっちの趣味は……」
 文句を全て聞く気すら見せずに、男の指がするりと俺のペニスに絡みついた。当然だが、女の柔らかく曲線のしなやかな手指とは違って、節ばった固い指先が僅かに爪を立てるように裏筋を通過した。
 慣れた手だった。ある意味、同性なら当然か。自分のモノがぴくりと震えて、先を期待しているのが分かる。
「はは、男子のココは、素直過ぎるよなあ」
 眼鏡の際から、普段は隠している切れ長の目で俺を見たベルナルドは、実に色っぽく捕食者の顔で笑い、舌を出した。
「――、ふ」
 何のためらいもなく先に吸い付かれ、思わずと息を呑む。もう一度グリーンの瞳がちらりと俺の顔を掠めたが、それだけだった。
 カリをぐるりと舐め上げられ、性急に腹に向くペニスにベルナルドはわざと音を立てて舌を使う。
 髪に顔が隠れてしまえば、根元を支えているのが慣れない男の指なのが違和感になるほど、女にされているのと変わらなかった。
 背筋を這い上がる確かな快感を楽しみながら、冷静な方の頭がまだ先を確かめたがる。
 手を伸ばし、ベルナルドの髪を首の方に流すと、常に涼しい顔を晒している男の頬が、飲み込んでいる俺のモノの形に歪んでいる。
「んっ、ンン……っは」
 ずるりと唇で吸いながら引き出した陰茎を見せつけるようにべろりと舐め上げる男の眼鏡が、うっすらと曇っていた。
「こっちも試そうか?」
 冗談めかして、ベルナルドは指先でタマの裏側をつっとなぞる。その先の意味を理解して、思わず萎えかかった。
「……いらん」
 自分でもどうかと思うほど不機嫌な声が漏れ、ベルナルドは楽し気にくすくすと笑う。
「サービスしてやるのに」
 熱っぽい呼気と視線はそのままにからかう声だけは子供のようで、そのアンバランスさが妙な色香をかもし出している。
「……ベルナルド」
 名前を呼ぶと視線もくれないまま、ベルナルドは口元だけで一瞬笑って、あめでもしゃぶるように横に咥える。俺のは、萎えるどころか熱を増すばかりだ。
 時折柔らかく甘噛みされながら唾液を絡めながら唇で扱かれると、上り詰めようとするペニスが自然にびくびくと震えた。
「なァ、飲ませるのとぶっかけるのと、どっちが盛り上がる方だ?」
 舌先で亀頭を押しつぶして虐めながらベルナルドはそう囁いてくる。普段のどのツラの下に、そんな変態じみた考えを隠していたのか。
「あんた……なあ……」
「答えないなら勝手にやるぞ」
 そう言ってベルナルドはもう俺の返事も聞かずに、再びペニスを咥え込む。
 女にさせると余る竿が殆ど根元まで飲み込まれ、喉に届いているんじゃないかという光景に、ベルナルドの髪を掴んでいた指が無意識に力を込めてしまう。そのまま、ベルナルドは苦しそうに眉間にしわをよせたまま、頭を上下に振る。
「ィッ……」
 コントロールできない感覚が、腰から抜ける。俺のを深く咥えた男は目を閉じて、精液を口で受け止めた。
「……っ、……ン」
 小刻みな射精のたびに引きつれるように動くペニスを、ベルナルドの舌が最後まで精液を舐めとるようになぞる。
 やがてベルナルドの口内で全て吐ききった俺のモノは、ずるりと引き出された。
「ん、……ふ、ぅ」
 何かに耐えるように目を閉じたままの男の喉仏が、震えながらこくりと上下する。
 てらてらと濡れる唇をひと舐めして、ベルナルドは下品に「ゴチソウサマ」と笑ってみせた。
「多かったな。ご無沙汰だったか?」
 俺の膝の上にしなだれかかりながら言う男の顔を撫でると、汗ばんでいる。
「……誰かさんがスケジュールを詰めてくれたおかげでね」
 気怠さの中、ベルナルドの腕を引き、抱きしめる。激しい口淫でぐったりとした身体は、大人しく俺の胸に収まった。
「フハハ」
 懐いた猫のように、可愛くなく笑いながら胸に擦り寄る髪を撫でると、ベルナルドは顔を上げて唇にキスをしようとして、躊躇してから結局俺の頬に唇を触れさせた。
「良かったんだったら、これで満足してくれ」
 首を傾げて言うベルナルドの唇に、迷いなくキスをする。
「されっぱなしで我慢できると思ってるのか?」
 言って男の背を抱いたまま立ち上がり、書類の海になっているデスクに押し倒す。
「こら……、調子乗ンな」
 口ではそう言いながらも、ベルナルドの抵抗は薄い。
「五分にはまだ……」
 時間がある、と言おうとしたところで、電話のベルに邪魔された。
「……時間切れ」
 俺の腕をウィンク一つでいなすと、ベルナルドは手を伸ばし受話器を上げた。背後からは追い打ちののようにノックとベルナルドを呼ぶ声。
 俺が身体を放すと、ワーカホリックの筆頭幹部殿の意識は仕事に取られ、あとはもう深夜まで会話すらなかった。

Sep.18.1936 (Fri.)



 週末の深夜だ。
 性懲りもなく執務室のデスクに齧り付いて離れない男は、誰もいなくなったその部屋でもくもくと加算機を叩いていた。機械から吐き出された用紙が長くデスクのこちら側に垂れ下がり、俺の革靴をカサカサとノックしている。
 相変わらず目の前にいる俺をガン無視して仕事を続ける中毒患者との我慢比べには結局先に折れることになった。俺と同じようにベルナルドに苦労させられている手の上にばさりと花束を乗せる。
 文字通り降ってわいた赤い薔薇と俺の顔を見比べてから、ベルナルドは何のひねりもなく問いかけた。
「なんだ、これ」
「見て分かるだろ」
 男はもう一度、同じように俺と薔薇を見る。
「……嫌味か?」
 眼鏡の向こう側で、不機嫌そうに目が細められた。
「お前は自分の女に毎週嫌味を言いに行ってたのか?」
「俺が毎週送ってたのは、女にやるものが他に思いつかなかったからだよ」
 ベルナルドは仕事相手の問答と変わらぬ淀みのなさで、愚直な理由を口にする。一度も会ったことのない女に、俺は少し同情した。
「そんなんだから、フラれんだよ」
「分かってるさ」
 束ねられた花に視線を落として、その冷たい目で薔薇の赤をひとつひとつなぞりながら、ベルナルドは俺に言う。 
「顔売るのが仕事の男が、俺みたいな朴念仁捕まえてベタに花束とは。そろそろ幹部位を譲る下準備か?」
 花束を胸に抱え、下から伺うような視線が送られる。
 思った通り、その赤はベルナルドによく似合っていたが、可愛げのない言葉にため息を吐く。
「朴念仁じゃなくて、むっつりの間違いだろ」
「口説きに来たのかと思ったら、どうやら違うらしいな?」
 ベルナルドはことさら機嫌よくクスクスと笑い、俺は舌打ちを重ねて降参した。
「男にそういう意味で贈り物するなんて、初めてなんだよ。察しろ」
「なるほど。それで、これはどの請求書を通して欲しいための贈り物なんだ?」
 手の中の花束をまたベルナルドは眺めながら俺で遊ぶものだから、思わず腕を引く。わざとらしく、どうしたと言わんばかりの表情を浮かべる男に、舌打ちをもう一度。
「させろ。週末だぞ。いくらなんでも時間空いてるだろ」
「百戦錬磨のお前の期待に添えるような身体はしてないんだがな」
「そりゃ俺が決めることだ」
「フハハ」
 まるで手応えのない押し問答をして、俺の気力が萎えかける。
「大体、あんた俺が好きなんじゃねえのかよ……」
 思わず口をついた言葉に、まるでどこかのスイッチが入ったかのように、ベルナルドは酷く嬉しそうな顔を浮かべた。
「お前でも自信をなくすことはあるか」
「……俺は殴っていいところだな?」
 じとっと湿った視線を送ると、ベルナルドはしらばっくれて肩を竦める。
「殴られるのは困る。花束の礼の仕方は知ってるしな?」
 そう言ってベルナルドが立ち上がり、デスクに身体を乗り出す。
「愛してるよ、ルキーノ」
 ひっそりと囁いたベルナルドの表情は、女だったら小悪魔の微笑だっただろうが、おっさんの老獪さのにじみ始めたそれだったので思わず舌打ちが出た。それにすら色気を見てしまった俺に対してもだ。
 苛立ちのままベルナルドの掴んでいた腕に力がこもると、びくりと相手の身体が震えた。一瞬、見覚えのある怯えの顔を見た気がしたが、すぐさま苦笑に変わった。
「分かった分かった。次にここで捕まったら、させてやるよ」
 いやに丁寧に振りほどかれた手を持て余し、そのまま自分の髪をくしゃりと掴んだ。
 実に面白いほど振り回されている。そして年上の男に振り回されることすら楽しんでいる自分に、照れに似た混乱があった。フランス映画で一人の女の尻に執着する主人公じゃあるまいし。
「……ホントかよ」
 やけに情けない声が出た。
「諦めるか?」
「俺がそういう男に見えるか?」
「本当に、お前の期待に応えられるようなものでもないんだがな」
 そう言ってベルナルドは、俺の否定を封じるように柔らかく触れるだけのキスを押し付けてきた。はじめと同じ、渇いた唇だった。
「今日はお帰り、ガッティーノ。こっちの悪戯は受け取ってやる」
 ベルナルドは花束にこっそりと――そっちは気づかせないつもりで忍ばせていた請求書を目ざとく拾い上げ、その紙面にもキスをした。
 ――そうして執務室を体良く追い出されたあと、この男は俺の顔を出す時間に合わせて仕事を入れるだの不意の電話や部下の呼び出し、まるでジャンのラッキーまで味方させるような手管で見事にまるまる一ヶ月間、俺から逃げ切った。才能の無駄遣いも甚だしい。
 薔薇は枯れるギリギリまで、俺への当てつけのように執務室に飾られていた。
















Oct.20.1936 (Tue.)



 珍しく、執務室に前には誰も立っていなかった。
 週も始まったばかりの火曜の、深夜と呼ぶにはまだ早い時間帯としては珍しい光景に、俺はノックもせずに扉を開いた。
 照明は落とされ薄暗い室内、ベルナルドはいつもの定位置で――ライトの明かりが灯るあのマホガニーのデスクで珍しく、居眠りをしているようだった。
 書類の海に突っ伏す頭を撫でて、声をかける。
「ベルナルド、仮眠するならせめてソファに……」
「ああ――、ルキーノ」
 ゆっくりと顔上げたベルナルドの顔は、薄暗さのせいか酷く青白い。
「すまないが、上の私室まで肩を貸してくれないか」
 言われて、そっと男の顔に手を触れさせる。普段は自分より冷たく感じる肌が、今は明らかに俺よりも高い体温をまとっている。
「……お前」
 俺が声を漏らすと、ベルナルドは悪戯を見つかった子供みたいな顔で苦笑した。
「誰か呼ぼうか考えあぐねいていた所だ。部下にこんな姿を見せるのは恥ずかしくてね」
「カッツォ――。体調管理は仕事のうちだって言ってたのはどこのどいつだ」
 悠長な男の肩に、自分のジャケットを羽織らせる。
「そうだな。悪い」
 体調のせいか、口も態度も抵抗しないベルナルドがだらだらと立ち上がり、めまいでも起こしているのかデスクに手をつきそうになったのを支えてやった。
「素直なのに免じて、これ以上は聞かないでやるよ」
「はは、優しさに涙が出そうだ」
 茶化すベルナルドに舌打ちを一つ。一度、扉に振り向いてから、ふらついている男を抱き上げた。
 男の癖に軽くはあったが、さすがにレディにするようにはいかず、半ば肩に担ぐ形になった。色気もへったくれもないが、致し方がない。
 そのまま本部の上階にあるベルナルドの私室に歩きはじめたが、顔の見えないベルナルドは一言も文句を言わなかったので、エレベーター待ちをしている間に聞いてみる。
「今日は抵抗しないのか?」
「……抵抗したら、ひどいのは分かってるからな」
 なるほど。言われてみれば、例えベルナルドが抵抗したところで口を黙らせてでも、俺は勝手にやっただろう。
 それでも、ほかの誰かだったら――こいつは大人しくしていただろうか、と脳裏をよぎる。
 ベルナルドの私室のドアの前に立つと、ベルナルドが鍵を手渡してきた。一瞬触れた手が、さっきより熱を持っている気がしたがともかく、扉を開ける。
 想像通り殺風景この上ない部屋には、読書灯がつけっぱなしになっていた。
 隙なく整えられているベッドに軽い身体を降ろしてやると、ベルナルドはまるで背に根でも生えたかのようにぐったりと動かなくなった。
 青白かった顔に、僅かに赤みがさしてきている。熱が上がってきているのだろう。
「おい、ちょっと身体起こせ」
 手を差し出すと、億劫そうに目を開けた男は渋々、俺の手を掴む。
 助け起こしてやってネクタイを解き、ソックスまで脱がせてやったが、ベルナルドはじっと俺の顔を眺めながら、されるがままになっている。
「……少しは俺に、心を許してくれてると思ってもいいのか」
 ベルトを抜き、ジャケットも脱がしてやりながら呟くと、少しの間を持って、黙って脱がされていた男は息を漏らした。
「フ、……フハハ。色男が何を言ってる」
 かわされ続けたこの一ヶ月を思い返して、シャツのボタンを緩めてやっていた手元から視線を上げる。
「散々俺を袖にしてくれた奴の言うことか? 後にも先にもあんたくらいだがな」
 不機嫌さを隠さずに言って、ベルナルドをまた横にさせると脱がせたジャケットとベルトを手に立ち上がった。
 恐らくベルナルドがいつもコンプレートを一式かけている場所にジャケットを戻しながら、一緒に着せていた自分のものも横に掛けた。身長は大差ないくせに、ジャケットを並べると相手の肩の細さが酷く目立つ。
「……そうやって言ってくれるのは、お前も俺に心を許してくれているからだろうな」
 背中から掛けられた声はいやにしみじみとしていて、ベルナルドの言葉に嘘はないように思えた。あの日の、車内での会話を思い出した。
「なんだ、嬉しいとか言う気か?」
 ベッドサイドに戻りながら言うと、あまりに自然に手が差し出された。
「嬉しいよ」
 今までになくはっきりとした言い回しに、誘われるように熱いばかりで汗が出ていない手を握り返し、しゃがみ込む。
「俺はお前が大切で、愛しているからね。思われて、嬉しくないはずがない」
 どこか歌のように言われ、今更ながら普段の行動と言葉の一致しない男に呆れるしかなかった。
「ファミーリアとしてか?」
 こうやって触れたがってるくせに距離を詰めることをしない、まるで理解できない男に半信半疑で確かめてみると、重ねている指が小さく俺の手を撫でた。
「お前が、仕事を届けるためだけじゃなく、執務室に通ってくれるのも、な」
 くすくすと、ベルナルドは目を細めて笑う。とんだ性悪だ。知ってはいたが。
 それでもそれが本音だろう。ジャンに度々口にしていた睦言に、事実を混ぜ込んでいたように、軽口の中でなければ本当のことを言えない質だと、ここ数週間で思い知った。
「それを今言うのは、弱ってるからか?」
 いじらしいを通り越して、思っていたより危うい場所に立っていることを自覚させるように言う。
 それでもベルナルドは緩く頭を振って、否定した。
「信じてくれないんじゃないかなと思ってね。俺の言葉は、手の内を知られている相手を信用させるのに向かない。分かってるだろ?」
 想像力が豊かだと言えば聞こえはいいが、仕様がない範囲にまで思考を回そうとするのは、ベルナルドの悪い癖だった。言わんとすることは分かるが、分かると言うのは癪なので黙り込めば、先にベルナルドが口を開く。
「いや、俺の傲慢だな。心変わりが怖いんだよ、俺は」
 掠れかけの声で男は目を伏せた。
「自分の心すらどう転がるか分からないのに、言葉にして、いつか嘘になるのが怖い。お前からの答えも、俺の問いかけも」
 酷く臆病にベルナルドは言って、やはり笑った。笑ったように見えた。
「あんたが言う通り、揺らぐのは仕方が無いだろうな……」
 俺の知らない何に、この年上の男はこんなにも怯えているのだろうか。
「自分が変わらないなんて言えない。でも、だからと最初から諦めて口を噤むのは、それこそ傲慢じゃないのか?」
 謳歌するべき人生という美酒の味を、知らないわけでもないだろうに。
 ――いや、知っているからこそ、捨てる選択もできずにここにいたのか。
「今日は喋りすぎだな……」
 お互いに先を続けられなくなって、ベルナルドは静かに諦めた。
「普段が喋らなすぎなんだ」
 ほどけた手で、男にしては細く柔らかい髪を撫でつける。居心地の悪そうな顔をしているベルナルドの頬にキスをして、耳元で「寝ちまえ」と囁く。
「ん、電気は……」
 言いにくそうに伸ばしかけた手をまた捕まえて、その指にも唇を触れさせた。
「知ってたよ。あんたがあのブタ箱で明かりがないことに怯えて、それでも気丈に振舞ってたのを。何度か八つ当たりされたしな?」
 心当たりでもあったのか、ベルナルドは恥じ入るように身を縮め、その今更の反省に微笑んだ。
「あんたはそうやって怖がるが、知られているのも悪くはないだろ」
「それでも、全部を理解されるわけじゃない」
 殆ど間髪いれずに突き放してきた言葉は俺に対して刺のある声音ではなく、自分自身への忠告のようだった。
「……全部を理解して欲しいのか?」
「どうだろうな」
 逆にすぐさまにでも否定されると思った問いかけは、不確かな返事で濁された。
「あんたにも分からないことはあるか」
 ベルナルドはそれには答えず、曖昧に笑みを浮かべた。
「分からないことだらけだよ。恐怖心から事実ばかりを知りたがって、結局そのせいで余計に目を悪くしている」
 深くため息を吐いたベルナルドは、まるでこの世の苦痛を一身に引き受けた隠者のようだった。
 ――それでも、お前が考えを巡らせてくれるおかげで、俺達は時代錯誤になりつつある組織で生きていけているのだろう。言えば余計に考えをこじらせるだろうから、黙ったが。
 知り合った頃からこいつのジャンへの思いを知るまでの長い間、俺の頭の中で一分の隙もないコーサ・ノストラだった男は、思っていたよりも面倒で、不器用で、自分の性分ではどうにも度し難い。
「どうしてあんたはそう、素直に甘やかされてくれないのかね」
 そこに不快感より人間性を見てしまったのだから仕方がない。
「なら――約束、してたろ。……このまましてくれ」
 今まで忘れていたことを引き合いに出され、俺は一瞬何を言われたのか理解できずに言葉を詰まらせた。
「そりゃ、嬉しいお誘いだがな……」
「甘やかしてくれるんじゃなかったのか?」
 ベルナルドは俺に外交的な笑みを浮かべてから、声を失速させた。
「……今は、忘れたいんだ」
 そう言った男の今日はずっと悪い顔色が、ますます白んで見える。
「何だを?」
「忘れてしまえば、言う必要がなくなるだろ」
 卑怯な物言いに、自分の表情が分かりやすく曇るのが分かった。
「あんたのそういうところは気に食わん」
 俺がそう言うと、ベルナルドはまるでジャンといる時のように頬を緩めた。俺はいたたまれなくなる。
 発情期の猫の追いかけっこのような可愛らしさより、俺から逃げ回るベルナルドに感じるのは、もう一つの壁だ。
 茶化し、焦らして、甘い砂糖菓子のような関係を味わいながら、結局それを本当に手にする権利は自分にはないという顔をしているのが、気に入らない。
「どうしてあんたは、自分が愛されてないと思わないと安心できないんだ?」
 はっきりと聞くと、さあと波が引くようにベルナルドの顔色が冷めた。
「もし、相手がジャンなら――」
「お前はジャンじゃない。代わりじゃないんだ。俺は、」
 珍しく慌てるようにベルナルドは言葉を被せ、俺が口を噤んだのを見て言葉を途切れさせた。
「…………お前は犬じゃない」
「うん……?」
 言ったそばから後悔している顔を浮かべた男は、祈るように俺の手を握りしめた。
 口にしたのが俺には理解できない理屈なのは、ベルナルド自身も理解していたようだった。
「ルキーノ」
 取り繕うように、縋るように、ベルナルドは俺の名前を呼ぶ。
「愛してる、よ」
 タイミングとしては、最悪な部類だと思った。それでも誤魔化すというよりは、自分に言い聞かせるような言い方が気にかかった。
 知られたがってる癖に、どうしても最後の一線を越えられずにいる男に、苛立ちを隠せない。ジャンにさえずっとそうだったものを、今すぐ明け渡せという方が無理なのも分かってはいたが、それでも。
 乱暴に唇を重ねると、ベルナルドは大人しく唇を開いた。差し込んだ舌を絡めると、慣れた仕草で返される。
 熱っぽい舌にわざと歯を立てたが抵抗もなく、むしろどこかその痛みを受け入れるようにベルナルドの腕から力が抜けた。
「言ってること自体に嘘がないのは分かるけどな」
 唇を離し、言葉を濁す。ベッドに片膝を乗せて、どこか怯えた表情を浮かべていたベルナルドのこめかみにもキスを落とした。
「……甘やかすとつけあがるぞ」
 俺が話を追求しなかったことに明らかに安堵しているくせに、強がる男に無視できない程度の苛立ちを感じる。苛立ちのまま口元に薄い笑みを浮かべる男からスラックスを剥ぎ取り、完全にベッドに上がる。
 ベルナルドのペニスは、さっきまでのキスだけで既に立ち上がっていた。
「もっと甘えろよ」
 俺の言葉に、今日だけは素直な腕がもたもたと手を伸ばす。シャツの上から胸を撫で下ろされたので、その期待に応えるように上を全て脱ぎ去る。
 シャツを行儀悪く床に放った端から、俺の裸の胸や肩を無言で撫ででいる男は、普通の、俺を愛している恋人のようで、普段の姿と余りにもかけ離れていて違和感が拭えない。
「……俺は病人にサカる趣味はないからな」
 自分に言い訳するように呟いてから、半脱ぎのスラックスからまだ少し柔らかいペニスを取り出して、ベルナルドのモノを擦りつける。
 期待の視線を向けながら、触れた感触にベルナルドがひくりと身体を震えさせたのを見ただけで、自分のペニスに血が集まるのが分かった。
「今日はこれだけ、な」
 重なった二人分の陰茎をまとめて扱き上げると、手淫と変わらない筈なのにまた違う快楽が背筋を登る。
「ほら、お前も手……」
 そう言うと、俺の胸に触れていた手がおずおずと降りてきて、俺のを口でした時とは裏腹に、拙い手つきで指を絡めてくる。
「……っ、あつ…い」
「熱だろ、あんたのは……」
 もう先走りで漏らしたみたいになっているベルナルドの鈴口に指をすべらせ、体液を伸ばす。指を絡めて濡れたペニスを扱き合うのは、酷く卑猥な光景に目に映った。
 熱っぽい目で、ベルナルドも手を揺らしながら息を乱す。
「あ…、こすれ、て……」
 扱くたびに、重なっている裏筋がぐりぐりとお互いを刺激するのが気持ちよくて、ベルナルドの腰が浮くとまた強く擦られる。
「たりな…あ、ぁ――」
 元々ベッドの上ではそうなのか、熱のせいか上ずっている声ごと食うようにキスをして、舌を差し入れる。
「ぅ……ふ、――ん」
 口を塞ぐと、至近距離で薄いグリーンの目がとろりと溶ける。
 扱いていた手で互いの亀頭を包み込んで擦り合わせるように動かすと、びくびくとベルナルドの身体が跳ねた。
「……は、…もう、出てるぞ?」
 青臭さと共にぬめった白濁が指の隙間から溢れるのをゆっくりと擦りつけると、とぷとぷとベルナルドのペニスの先が小さく震えながら残った精液を吐く。
「ん、うん……――は、っア…、」
 涙を浮かべてどこか呆然と震える自分の手元を眺めているベルナルドの目元にキスをして、問いかける。
「まだ足りない……?」
 熱に淡く浮かされた瞳がのろのろと俺を見て、きっと混濁している意識のままに、頷いた。
「じゃあ、俺の……付き合え」
 病人にサカる趣味なんて、とさっき自分の言ったことを思い返して苦笑しながら、ベルナルドの手をべったりと濡れた自分の手で包むようにして上下に揺さぶると、ぐちゃぐちゃと卑猥な音が響いた。
「っ、あ、…いい……きも、ち……い……、ルキー…ノ……」
 普段とまるで違う、舌っ足らずな声が、キた。
「……っ」
 イイところを普段はタイプライターの上を跳ねるだけの指に擦りつける。迸った精液が勢いよく弾け、ベルナルドの腹を汚した。混ざり合った精液でべたべたの手を掴んで、まるで酸素を求めるように唇に噛み付いた。
 ぬるりと擦れ合う指すら気持ちいいと感じる。
 半分意識を飛ばしたまま熱に喘ぐベルナルドの唇と舌を、しばらくの間、無心で舐っていた。



*



「初めてお前とキスをした時、犬の臭いがした」
 身体を拭いてやっていると、いつの間にか目を覚ましていたベルナルドが、ぼんやりとした目のまま俺にそう投げかけてきた。
「――昔、犬を殺したことがある」
 声量が足りないわけでも震えているわけでもないのに、至近距離で聞こえる声の色は薄く、まるでゴーストのようにおぼろげだった。
「後方で通信兵をやっていて、ああ、その話はしたことあったか?」
 ベルナルドは殆ど主語を飛ばして、昔話をし始める。まだ、半分眠っているのかもしれない。
「……通信兵だったのか?」
 あまり要領を得ない言葉に返事をすると、ベルナルドは頷くつもりだったのか、微かに首を傾げて見せた。
 ベルナルドが組織に入るよりも前に、軍に所属していたのは知っていた。そうとは聞かなかったが、恐らく大学に入る権利と奨学金を得るために身を置いていたのだろう。
 俺の部下にも、そうやって大学を出た奴が何人かいた。
「――それで、前線から下がって来た部隊が、犬を連れてきて」
 遥か遠くを見る目は何度か瞬きをして、何かを諦めたように閉じられた。
「俺はそいつに噛まれて、上官の許可で殺した」
 あらゆる経緯や思いは、省かれた言い回しだった。それがベルナルドが見せることのできる限界に思えた。
 理解させるほども言えない。かといって黙って耐えるには近すぎる距離から溢れたのだろう、殆ど意味の成さない懺悔だった。
 着せたシャツの背から髪を抜いてやると、俺を見ていたベルナルドと目があった。正気の時なら、その微かなものすら差し出すことができないだろう男は、静かに俺の目を見ていた。
「今でも、夢にその犬をみる。俺も犬も血だらけで……」
 俺の目の赤に、血の色を見ていたのかもしれない。夜明けに見てしまった悪夢を吐き出すような言い方に、服を着せていた手を止めた。
「だから苦手なのか」
 ベルナルドは俺の問いかけにゆっくりと普段の表情を取り戻し、自嘲の声を漏らした。
「くだらないだろ?」
 俺に言えることは何もなかった。他人には小さな刺に見えても、本人はそれが心臓に刺さる痛みにのたうっているなんて、ごくありふれた話だ。
「あんたがそう思えるならな」
 再びボタンに手を掛けると、随分と長い無言があった。
「……くだらないことだ」
 深く深く息を吐いて、答えを必要としない告白を折りたたむように、ベルナルドは昔話を終わらせた。
「俺は、お前が思うより遥かに弱いよ」
 継ぎ足された言葉に砂を噛んだような気分になった俺は、ベルナルドのシャツの前を全て閉じて、赤子にするように頬に口づけた。
「あんたはあんたが思うよりもずっと立派にやってるけどな」
「強く見られるよう、必死なんだ」
 この男が口にした臆病さは自分の方が遥かに強い気がして、思わず離れかけた手に、ベルナルドが縋るように指を絡める。
「ルキーノ」
 名前を呼ばれ指を緩く握り返すと、親の顔色を伺う子供のような目をしたベルナルドがそっと俺の指先を撫でて言った。
「明日は俺なしで仕事を回すように、電話部屋に伝えてくれるか?」
 おずおずと差し出された甘えた声に俺は笑って、もう一度今度は額にキスをした。
「自分で言ってくるとは思わなかった。いい子だ」
 またじわじわと熱を帯びてきている指を毛布の中に収めてやって言うと、ベルナルドは過保護め、と小さく零した。













Oct.26.1936 (Mon.)



 それに気づいたのはベルナルドが復調して、ものの数日だった。
 ベルナルドに執務室ですら遭遇しなくなり、かわされるのではなく、避けられていると気づいた。心当たりは一線を越えた、というより、越えかけたしかなかったが、だとすれば余りにもくだらなかった。
 ベルナルドにとっては、死活問題なのかもしれないが。
「あんたら、最近喧嘩でもした?」
 ベルナルドのデスクに請求書の束を放ると、もう一つの席、本来のこの執務室の主から声をかけられる。
 ジャンは万年筆を行儀悪く口に咥えていて、普段だったら殴りつけてやっているところだがそんな気も起きなかった。
「……逆だな」
「んー? ん??」
 幸い、今は室内に俺とカポしかいなかった。そもそもを考えれば、俺達がこうなったのも間接的にジャンのせいだと思うと、理不尽だろうが文句を言いたくなった。
「手を出したら逃げられてるんだ」
 文句の代わりに、本来ならこの場で殺されかねない秘密を差し出す。
 ジャンは分かりやすく口元から万年筆を取り落とし、あーとかうーとか変な呻き声を上げた。
「――やっぱ、俺たちのこと気づいてて、言ってるよな」
 恐る恐る、今更なことを聞いてくる我がボスに、俺は肩を落としため息を吐く。どっちかっていうと、ジャンにというより今の自分の状態にだが。
「最初からバレバレだ」
「…………馬鹿だしなァ、あいつ」
「お前も顔に出てる」
 指摘するとそれだけでジャンは真っ赤になったり真っ青になったりしたので、ああこいつポーカーは今でも下手糞なんだろうなと思う。
 ひとしきりジャンは一人で考え込んでから、吹っ切れたように、にかっと笑った。
「まあ喧嘩してっていうより、殴り合えてナンボじゃないの。俺達オトコノコですし」
 ベルナルドにもこの半分くらいの思い切りのよさがあればとも思ったが、そこは人のことを言えそうにもないので結局俺の心は憂鬱さを増すだけだ。
「あいつ、殴ったら折れそうだな」
「――ク、ハハハ! まあ、そうだけどな」
 ジャンは明朗に笑いながら、俺に紙巻のパッケージを差し出した。
「しかしどうしようもねえ、組織だな。トップが揃いも揃って」
「まったくだ」
 チンピラが吸うような安い煙草を共有しながら、俺は側のソファにどっかりと座り、煙が天井に消えていくのを眺める。
「健全なのはジュリオちゃんくら――い、とも言えねえか」
 別の意味で不健全な男の名前を口にして、俺たちは本当なら笑うに笑えない現状に、やっぱりどうしようもなくて笑う。
 そうなってしまったものは仕方がない。そうは思うものの、今更ベルナルドにキスをしたことを思い返さずにはいられない。
「お前は後悔はしてないか?」
 何を、とは言えなかったものの、俺は余りにも女々しい言葉を声にしてしまい、言った先から後悔した。
「俺が例えば後悔してたとして、あんたの結論に関係してくんのけ?」
 ある意味当然で、俺に必要だった返事が返される。
「しねえな」
 ジリジリと減っていく煙草の先に視線をやり、そこで燻っている火を眺めた。
「恋に臆病なライオンちゃんだなあ」
 デスクにいたジャンはソファにいる俺の正面に座り直し、まじまじと俺の顔を覗き込む。
「――恋。恋ね……。学生時代ぶりに聞いた単語だ」
 学生結婚をした自分には、そうそうに縁遠くなった言葉とも言えた。これは、恋なのだろうか。
「恋はいくつになってもいいもんだってマンマが言ってた」
「やめろ、萎える」
 ジャンの思わぬ言い方に俺は眉間にしわをよせ、安い煙草の煙を肺にいれてその不快感を追い出す。
「そうやって、ちんこでばっかり考えちまうのが男の悪い癖だよなあ」
「まだしてねえ」
 反射的に答えてしまってから、また後悔した。今日はどうも調子が出ない。
「……マジで」
 他人の口から疑問を投げかけられると、事実が余計に重っ苦しくなる気がした。ジャンのせいではないが。
「悪い。チビっちまうから睨むなよ」
 やはり無意識に表情に出ていたらしく、俺はどうしようもなくなって視線をそらす。
「ベルナルドはむっつりだと思ってたんだけどなあ」
 その認識はあってるだろうけどな、と言いかけて、俺を好きで、セックスが嫌なわけでもなく――なら、あいつは何から逃げ回っているのだろうかと思い当たった。
「俺から逃げてるっていうより――」
「うん?」
 まとまらない考えが口をつき、ジャンに聞き返される。
「ベルナルドは、俺に誰を見てるんだろうなって思ってな」
「まさか、別れたオンナ?」
「ないだろうな。もっと違うものだ」
 それはきっと人ですらないように思えた。俺の後ろにゴーストを見るような、常に何かの影に追われ続けている気がする。
 俺には見ることができないから、あいつは苦しんでいるのかもしれない。そうなってまで、どうして言いたがらないのかが俺には分からない。
「――何笑ってるんだ」
 ふと気がつくとジャンが、表情に確かな笑みを浮かべて俺の顔を見ていた。
「いや、ごめん。あんたら可愛いなって思って」
 想定外の言葉に顔を曇らせ、思い当たるところのないジャンの評価に疑問符を浮かべる。
「可愛いなら、お前らの方だろ」
「そりゃどうも。でも俺らとあんたら、変わんねえって。だから、可愛いなって」
「……わからん」
「ア、ソウ?」
 ジャンは煙草を灰皿に押し付け、代わりにポケットからバブルガムを――人前でやらなくなったフーセンを膨らませながら言う。
「俺から見たら、尊敬するかんっぺきなコーサ・ノストラの二人が、俺と似たようなことで右往左往してんだし」
 パチン、と言葉の合間にガムが弾けた。
「そういうの、可愛いじゃん」
 ギャップ萌えってヤツ? とよく分からないが俗っぽいことをジャンは呟いて、ガムをまたくちゃくちゃとやりはじめた。
「……喋りながら噛むな」
「はーい、グレゴレッティせんせー」
 ジャンは本物のガキみたいにガムを飲み込んで、流石にもう叱る気にもなれなかった。
「ベルナルドはさー、あんたのこと普通に好きだと思うぜ。俺が言っても気休めだろうけどね」
「そうか?」
「あのおっさん、思うより単純で分かり易いじゃん」
 言われればそうだと思えるが、見失いかけた感情はどうにも制御し難い。
「ベルナルドはあれでいて、本当に不快なことはできないタイプだし」
 決定的な一言を与えられて、ようやく腹を括った。
 そもそもあいつが拗らせているのも、俺が自分勝手なのも今に始まったことではなかった。
 俺は煙草を灰皿に押し付けて、立ち上がる。それからジャンの頭を捕まえて、くしゃくしゃとその金髪をかき混ぜた。
「わーっ!! おっさん何してくれるんだよ!? これから人と会うんだぞ!?」
「髪整えてくるついでに、ネクタイ締め直して来い。見えてるぞ」
 俺は歯を見せて笑って、自分の首を指でとんとんと指す。ジャンは首筋に残った子犬の噛み跡を、ばっと手で隠し、へらっと笑う。
 俺たちに正しい道を示してくれる、いい男だと思った。




Oct.30.1936 (Fri.)



 カナダウィスキーの瓶を一本、裸のまま片手でぶら下げて深夜、本部上階にあるベルナルドの私室に訪れた。まるで埓のあかない相手を、捕まえるために。
 俺が執務室以外に自分から行くのは初めてだったからか、ベルナルドは俺のノックに殆ど無警戒にドアを開けたので、その隙間に足をねじ込んだ。
 強盗の手管にベルナルドは目を丸くして「別に追い出しはしないさ」と部屋に俺を招き入れた。そうでもしなければ、上手いこと言って追い出すつもりだっただろうに。
「あんたここ数日、別れ話をしたそうな顔してるな」
 俺の問いかけにベルナルドはきょとんとして見せてから、ややあって「付き合ってたなんて初耳だ」と元も子もないことを口にした。
 俺が隠しもせずに不機嫌に眉間にしわをやると、ベルナルドは気安く笑って、悪い、と付け足した。
「正直なところ、今も部屋を出ていきたい気分ではあるな」
「お前の部屋だ」
 言いながら勝手に棚に飾られたグラスを取り出し、ベッドサイドに酒瓶ごと置く、そのままベッドに腰掛けるとベルナルドを手招いた。
 数秒ためらってから、逃げる場所もないのでベルナルドは大人しく俺の横に座る。その手に、グラスを手渡してウィスキーを注いでやる。
「ジャンじゃない誰かを好きでいるのが怖いのか?」
 二人して、グラスに琥珀色の液体が満たされるのを眺める。ベルナルドは答えない。
「いいや、そんなにも忘れたいのか」
 今度はもう一方のグラスに手酌して、俺はベルナルドの返事を待った。
 男が持ったグラスの中で水面がすっかり静かになると、ベルナルドは一度瞬きをしてから、それの中身を一気に干した。
「――ずっと恋をしていた。身分不相応なやつをな」
 空になったグラスに、今度は感情を吐露して、ベルナルドが小さく頷く。
「絶対に成就しないと確信のある恋は麻薬と何も変わらない。ジャンがああなって、何も変わらずに済んだ自分に、相手が何であろうと誰であろうと、構わないのだろうと思ったよ。おぞましいとさえ。俺は誰かを偶像に借りて、マスターベーションに浸っているだけのどうしようもない男だ」
 明け透けなコンプレックスを男は一気に捲し立て、自嘲を口に浮かべた。
「正直言うとな、お前はきっと、もう他人に触れられない人間だと思ってたんだ」
 ベルナルドは一滴もアルコールを入れていないような顔で、俺の目を見た。
「だから、好きになった」
 懺悔のようだと思った。まるで許されるべき感情ではないと、ベルナルドは確信していた。
「お前は俺が思うよりずっと、強かったわけだが」
 失敗したな、とベルナルドは笑う。その言葉は完結していて、俺には向いていなかった。
 それを構わない、許す、と言ってしまえば、ベルナルドはどんな顔をするだろうか。逃げ場を失った男が窒息する風景が何故だか浮かんだ。
「あんたを怖がらせている、“犬”はなんなんだろうな――」
 言葉を濁らせ、はっきりとは聞くことができないのは俺の臆病さからだった。口をつけられないままでいた酒を、唇を濡らすように一口だけ喉に流した。
「……俺が恐ろしいのは犬の形をしているだけで、もっと別のものだ」
 くったりとベルナルドは、話の内容など関係ないとばかりに俺の肩にもたれかかる。空いたグラスをもう不要とばかりにベッドに転がしながら。
「どこまでも追いかけてくる逃れられない過去や、それによって作られた自分の性質そのものが、俺にとっての犬で、暗闇だ」
 ベルナルドの視線が、ベッドサイドのライトをなぞった。こんな頼りない明かりに頼らないと生きていけないと言わんばかりに。
「それはお前にも、覚えがあるだろう?」
「ベルナルド」
 遮ろうとした言葉は、押さえつけられる。
「“忘れられれば幸福か?”なんて聞かないでくれよ」
 ベルナルドの手が俺のネクタイを掴み、引いた。俺の手からグラスがこぼれ落ち、中身を俺とベルナルドの膝にぶちまけながらカーペットに転がる。
 酒臭い唇にキスをされ、ベルナルドは微笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
「俺はこんな風じゃなかったら、お前に惚れなかったかもしれない。きっと誰しもそうだろう。俺が違うのは、積み重ねた今を投げ打って、お前に触れることも諦めてでも、過去を打ち払いたいと思ってしまうことだ」
 じゃあ、どうしてお前は今、キスをした。
 何もか諦めたい癖に、誰かに触れることだけはどこかで求めているからじゃないか。
 それはきっと俺にも言えることなのに、ベルナルドは気づかない。
「俺は、お前とは違う。幸福に耐えるだけの美徳を持ち合わせていない。いつもどこかで捨て去るタイミングを測って――」
「ベルナルド、もういい」
 自分の身を言葉で傷つけ続ける男を静かに止めると、ネクタイを掴んでいた手と身体が離れた。
「幻滅してくれ」
 回ってきた酒にふらついた男の腕を掴むと、ベルナルドは掴まれた腕を見て心底傷ついた顔をした。
「お前が思うような男ではないよ、俺は」
 逃げる足さえ無くしたようにうな垂れるベルナルドに、この男が言うのとは別に、俺に惚れてしまった理由にもう一つ気づいた。
 本当にこの男は、自分以外の何もかもに憧れてやまず、きっと自分ひとりが汚れているように感じて、だからジャンとは逆に過去に囚われて同じ場所にいた、俺が必要だった。きっと。
「俺があんたに幻滅するっていうなら、俺もあんたに不当な憧れを持ってるんだろうよ。勝手に決めるな」
 淡々と告げて、一気に飲み干した酒のせいで荒い呼吸になってしまっている男のネクタイを緩めてやる。
「……そうだな」
 あの日の花瓶で終わっていった薔薇のようにしおらしくなった男の顔を撫でた。
 ベルナルドは俺の手が触れて安堵し、次の瞬間からもう後悔の色を見せる。幸福に耐えるだけの美徳を持てない、という感覚は俺には理解できない。
「難しく考えたところで、単純に俺に触る自信がないってだけだろ。身請け先から逃げてきた娼婦か」
 それでも幸せにしてやる、なんてオンナに対してはありきたりなセリフを吐いたところで、ベルナルドは救われないだろう。
「酷い言われようだ」
 泣きそうな顔をするベルナルドを見て、こっちが泣きたい気分だと思った。
 そもそも、俺の手は誰かを救えるようにはできていない。所詮、殺して糧を奪うようになっている。それが生業だから仕方がない。
 けれど、今なら同じ業を背負う人間の手ならば、掴めるような気がした。
「終わらせたところで、明日から他人になれる間柄でもないんだ。諦めろ」
 その手を掴んだ先は、はっきりとは分からない。けれど今更この感情をどこかにやってしまうのは無理そうだった。
「俺は、あんたに触りたい」
 失って、泣き叫んで、喚いて当たり散らして逃げ回って、それでも俺は何もかもを諦めてベルナルドのようにはなれなかった。どうやっても誰かに触れていたかった。ずっと蓋をしていた思いを、声ではなく、ただ静かに向けられた感情があっさりと開いてしまった。
「言わせやがって……。どれだけ俺が――分からないだろ……?」
 ああ、本当に泣きそうだ。俺はずっと、ただ、淋しかっただけだ。
 そんなこと今更、誰に言えるわけもなかった。
「……飼い慣らせない感情くらい、誰にだってある。それこそ、家を持たない野良犬のような――」
 認めたくない感情に呻いて、俺はどうしようもなく笑うしかなかった。
「……ルキーノ」
 じっと俺の目を見ているベルナルドの目に耐え切れず、俺は薄い身体を引き寄せた。アルコールで早くなった心臓の音が微かに肌越しに伝わる。
「後悔しないか、なんて先に聞くのは卑怯か」
 背中に回された手が、さっきまで俺が思っていたのと逆に「どうしてお前の方が泣きそうな顔をするんだ」と言う。
 ベルナルドが何かを言いかけ、一度やめ、それから観念したように吐き出した。
「――――隣にいさせてくれ」
 それが、ベルナルドが口にできた距離だった。握り返した手は、今度こそ拒絶されなかった。
「は……、生きてる間くらいはな」
 ずっとされてきた仕返しを織り交ぜ、今までしていた恥ずかしい押し問答を誤魔化すようにベルナルドを押し倒す。
「なあ、もういいだろ? させろよ」
「何の話だ?」
 まだとぼけてみせる酔っぱらいの唇に噛み付くと、本当にさっきまでの会話はなかったかのように首に腕を回し直した。
「俺にお前を犯させろ。わざわざ言わすな恥ずかしい」
「言いたいのかと思ってな」
 正確な返事は聞かずにベルナルドの私服を剥き、ベッドの上へ下へと投げ捨てる。途中で面倒になって、ベルナルドと一緒に寝っ転がっていたグラスも手で弾いて床に転がした。
「俺は言わせたい方だ。拗らせてるおっさんは本当にロクでもない」
 全裸の胸、心臓の上に口付けて自分もコンプレートを脱ぎ始めると、じとっとしたベルナルドの視線が向いていた。
「ベッドの上で、断った癖に」
「……あんた、どうでもいいこと根に持つな」
 自分が逃げ回っていたのは棚上げした男に脱いだシャツを投げつけると、フハハと聞きなれた笑い声が布の下から聞こえた。
「俺は女々しいんだ。お前ほどじゃないが」
 ベルナルドは顔面にかかったシャツを俺と同じように、ベッドの向こう側に投げ捨てながら言う。
「はあ?」
 聞き捨てならないセリフにベルナルドの上に乗っかると、同じタトゥの刻まれた左手が俺の右頬の傷を撫でる。
「女々しいとは違うか。お前は否定するかもしれないが、俺は結局、自分に価値があるなんて思えない。どうにか、ない頭を働かせてお情けで生かされてる」
 これはさっきの話の続きだろうか。蒸し返された話題に失笑して、唇に触れるだけのキスを降らす。
「どうしたらここまで拗らせられるのか、逆に興味があるけどな」
「諦めてくれ。これが……俺だ」
 諦めろ、と言い返されて、今度は瞼にキスを落とした。
「……言ったな?」
 シーツの上に散った髪を撫でて、ベルナルドにそうと分かるように笑いかける。
「うん……?」
「見せろよ。お前なんだろ、これが」
 俺の言葉を伺っていた男は、瞬きをして改めて俺の目を見た。俺はもうなにも聞かないフリをしてベルナルドの膝裏に手を入れて足を持ち上げた。
「――ン、こら」
 僅かな抵抗を見せたベルナルドの文句を無視して、膝にも口付ける。
「なんだ、この期に及んで今度は処女じゃねえからとか言い出すんじゃねえだろうな?」
 このまま足の指でもなぶってやろうかと視線を向けると、ベルナルドは真顔のままぽつりと呟く。
「まあ、好きな奴にレイプされるのは、ハジメテだ」
 恥じらっていればまだ可愛げもあっただろうが、商材を取り出すかのような声音に、俺は逆に何かをそそられたらしかった。
 ベルナルドは一瞬、自分の足にあたってるものに視線を落としてから、堪えきれない風に声を漏らして笑いはじめた。
「クソ、覚えたてのガキじゃあるまいし」
 上手く弁解もできず、その笑い声を封殺するようにベルナルドの身体を開かせる。
「照れてる顔もかわいいよ、ガッティーノ」
 身体を折り曲げられ、そんな格好でもベルナルドは俺の頬の傷を撫でながらからかってきて、早急にこの口を黙らせる必要が出た。
 片足だけ押さえつけたまま、自分の指を咥え唾液でべとべとにし、タマの向こう側のすぼまりをなぞる。つぷりと押し込んだ指先はすぐに飲み込まれ、俺はゆっくりとそこを解していく。
「ん――、っふ…」
 笑う声が途切れる。ベルナルドが何度か息を止め、掴んでいる膝裏にまで震えが伝わってきた。
「やさしく、しすぎだ……オンナじゃないんだぞ」
 アルコールのせいか愛撫のせいか、潤んで赤みが差した目が俺を見ていて、グリーンとのコントラストに、やっぱりこいつの目が好みだと意識する。
「俺がしたいんだよ。口出しすんな」
 ちゅ、と一度唇をさらうと、無理な体勢をさせられているベルナルドは、「俺の身体だぞ」と渋面で苦情を付ける。
「だったら、強請ってみろよ」
 俺の指を咥え込んで、ベルナルドのペニスは俺のことを笑えない程度には立ち上がっていて、あの日のように腰を揺らしてペニスをこすり合わせる。手を使わない分、感触は弱かったのに、熱い吐息と共に指が締め付けられる。
「っ、は…――さっきの仕返し、か……?」
 震えてる癖に強がるベルナルドの中に、指を一本増やす。引っ掻くように中身を抉ると、堪えきれない嬌声がベルナルドの口から漏れた。
「お前を気持ちよくして、俺も気持ちよくなりたいだけだ」
 当然のことを言ったまでだが、ベルナルドは一瞬凍りつき、失笑した。
「言えよ」
 指をひくついてる場所から引き抜き足を開かせ、ガチガチのモノのをそこに押し当てる。喉を鳴らしたベルナルドが視線をさまよわせて、口を開いた。
「挿れ……、っン…こら……ま、…だ」
 “おねだり”途中の男の後ろを、徐々にこじ開けながら先を促す。
「ほら、続き……」
「カッ…ツォ、ほんと、ガキ……ぁ、あ…」
 ゆっくりとした挿入だったが、亀頭の一番太い場所だけは不可抗力で速度を上げてぐぷりと飲み込まれる。ベルナルドの腹筋がびくりと震えた。
「っだ、めだ……ア、あ…ぅ……ルキ……」
 涙目で俺に助けを求める顔に欲情しているのを自覚する。
「まだ、全部じゃないだろ?」
 数インチだけ入り込んだものを揺らして追い詰めると、シーツを掴んでいた手が、俺を抱きしめる。
「……――、くれ…よ」
 決定的なセリフを受け取って、手加減ナシにペニスを全部中に収めた。
「ッ……ヒ、ぅ」
 すんなりとはいかないものの、根元までをベルナルドは受け入れて、身体を震わす。タマが薄い尻に当たっているのが分かる。
「…ぁあ、ア――」
 掠れた声で喘ぐベルナルドの顔はとろけ、口元から細く涎を零していた。それを指で拭ってやり、だらしない表情を晒した頬を撫でる。
「鏡でその顔みせてやりてえ……」
 もっと奥をえぐるように腰を揺らすと、ベルナルドは目に滲ませた涙を零した。
「やめ、っふ……、ン」
「イイ顔だ……その顔を俺にもっと見せろよ」
 目元をべろりと舐めると、背中に回された手が僅かに俺を抱き寄せようと動く。
「は、っ…ルキーノ、キスなら……こっちに、も」
 可愛く強請ってきた唇に唇を重ねた。すぐ、お互いを溶かしあうような口付けになる。
「ン――、ふ……く、ぅ…………ふぁ…」
 夢中で舌を絡め、歯列をなぞり、唾液を混ぜ合わせるようなキスに、動かしていない場所まで反応してしまう。
 ベルナルドが堪えきれなかったのか、唇を離し、呻く。
「…でかく、しすぎ…だ。あふれ、……」
 逃れるように離れた身体を手で辿り、腹筋を撫で、茂みの奥に指が届くと、べったりと濡れた場所がぎちぎちと噛み合っている。
「んー、ちゃんと飲み込んでるぞ?」
 覗き込むように身体を動かすと、ベルナルドが息を飲んだ。
「……イイのか?」
 眼鏡のレンズ越しに、水の浮いたアップルグリーンの瞳が、怯えの色に変わる。
 腹に擦りつけるようにペニスを引き抜くと、それだけでベルナルドは喉を晒した。
「ち、が……ア…、そこ――」
 頬を赤らめ否定する男は、普段にない顔でそそられる。
「ここか?」
 執拗に反応のあるあたりをカリで引っ掻くと、ベルナルドが背中に爪を立てた。
「ひっ、あ――…」
「この間みたいに、気持ちいいって言えよ……なあ」
 縋り喘ぐ身体を押さえつけ、触ってもいないのに上向いた乳首を指で押しつぶしながら、初めて味わう快楽を貪る。
 乱れた髪から覗く首筋に噛み付き、俺の形を教えつけるように腰を打ち付けると、ベルナルドは小さく悲鳴を上げた。
「――ッ、やめ、あ、ぁ……っだ、」
 声を詰めた男の踵が俺の腰の後ろに触れたまま痙攣するように震えて、腹に生温いものが跳ねる。
「っ、は……すげ、しまってる…」
 射精を果たし、とぷとぷと精液を吐いているペニスを軽く撫でると、耐え切れないのか背中が浮くのが可愛い。キツく締め付けてくる場所を味わうように、勢いを緩めず動かすと、垂れ落ちたベルナルドの精液が繋がっている部分でぐちゅりと卑猥な音を立てて泡立つ。
「ひっ、あ……あァ、ぅ…さわ……、うご、くな……」
「無茶、言うな。俺がどんだけおあずけ食らってたと……」
 水面を足掻くように暴れるベルナルドの腕を押さえつけて、耳を齧るようにキスをしながら、言い聞かせる。
「俺も出す、から――あんたの中、ドロドロにして……」
「こわ、れ……っ、ルキーノ…」
 うわ言みたいに喘ぐベルナルドは、言葉の通り壊れかけているように見えて、それなら俺の手で全部と、どこか壊滅的なことを思った。
「いい……から、壊れろよ…」
 汗と涙でべたべたになった顔を捕まえて、唇を奪う。
 ベルナルドは目を見開いたが、奥で俺が射精するとひくりと震えて、ヤク中のように表情を溶かす。
 俺は自分のが萎えるまで、幼いようなだらしのない顔を晒した男の口も犯した。



*



 恋人のように一緒に風呂に入った。
 まだ気怠げにしている男の髪も身体も隅々まで洗い流してやると、ベルナルドは色気もなく「介護されてる気分だ」と言った。
 お姫様みたいにしてやってんのに、と思いながらそれでも照れ隠しだと分かっていたので「そうかよ」とだけ返して、好きにした。
 そうして、シーツだけ新しくしたベッドに戻ってきて、背中からベルナルドを捕まえるようにして一緒に横になっている。
 つけっぱなしの読書灯の光を暫く眺めていたベルナルドは、ゆっくりと、ため息を吐いた。
「何だ、結局あんたの方が後悔してるのか?」
 表情はこちらからは見えないが、微かに笑う声がする。
「いいや。俺は自分の性質は嫌悪しているが、選択はもう後悔しようがなくてな。昔は選択自体を後悔していたと自分でも思っていたが、どうもそうじゃないらしい」
「なんだそれ」
 予想外の言葉に、俺は思わず問いかける。
「例え選ばされたものでも、なってしまったものは仕方がない。それより、選択した役割をこなせない自分に苛立つんだよ、俺は」
 結局、軍人としてもマフィアとしても、俺は半端者だとベルナルドは何処か遠くに語りかけるように言って、俺の右手を掴んだ。
「お前は逆だろ」
 ベルナルドの左手と重なり合って、俺たちのタトゥは言われた通り、鏡映しになった。
 思いがけず自分の弱さを暴かれた気分になって黙り込むと、ベルナルドはもう一度密やかに笑った。
「お前は可愛いな」
 俺をからかうスイッチが入りそうになっている男の手を強く握り、耳元にわざとため息を深々と吐いた。
「結局、恋人らしくできない自分が嫌なのか」
 それでベルナルドは声を詰まらせたので、俺は満足する。理屈をこねても、理由自体は単純だと笑うと、急にしおれた声でベルナルドはぼやいた。
「……俺はおっさんだしな」
 気にする場所を盛大に間違えている男に、始末に負えない感情を抱いた。
「どっちが可愛いんだ」
 我慢してやってんのに、勃ったらどうしてくれる気なのだろうかと言ってやろうか躊躇していると、ベルナルドは僅かに首を動かして俺を見ようとした。
「なあ、セックス……良かったか?」
 何に不安を覚えたのか、唐突にまるで可愛くみられたいように聞こえることを言う男に、俺は今度こそ堪えきれずにくすくすと笑い、ベルナルドの髪に顔を埋めて答える。
「余裕あるならもう一回やらせろ」
 ふわりと、ベルガモットの匂いがした。今は同じ匂いを纏っているはずなのに、確かにベルナルドの匂いだ。
「無茶言うな。おじさんはもう限界だ」
 それでも安心したような声音で、本当にどうしようもないところで弱さを見せてくるのが、愛しくなった。
「おっさんは俺も同じだけどな。……じゃあまた週末に」
「気が向いたらな」
 諦め悪く言葉を濁した男に、身体を拘束する腕を強める。
「まだ言うか」
 この場でもう一発突っ込んで諦めさせようかと脳裏を過ぎった瞬間に、ベルナルドは二人にだけ聞こえるような小声で言った。
「ここに、いてもいいんだろ」
 問いかけと言うよりは、確認のようだった。
「だから気が向いたら、するよ。させてくれ」
 もう一度、気がむいたら、とベルナルドは言う。自分で選ぶ、と。
 逃げ回っていた男はようやく、本当に諦めた。
「……ケツは貸さんぞ」
「フハハ、ケチくさい男だ」
 俺が僅かに抱いた不安を払拭すると、ベルナルドはまた声を立てて笑い、それから密やかにあくびを漏らした。
「一杯くらいでもうおねむか?」
「お前のことを思うと胸がいっぱいで、ここのところ寝れなかったんだ」
 いつものように、ベルナルドは軽口の中に本当のことを織り交ぜる。
 馬鹿だなと言う代わりに、頭に音を立ててキスを送り、抱きしめ直した。
「おやすみ、ベルナルド」
「ん……」
 微かに返事が聞こえて、やがて呼吸は穏やかなものに変わる。あまり、時間はかからなかった。
 ――ようやく捕まえたな、と重ねたままの手を握りしめて、空いている手で細い髪を梳くように撫でる。
 もっとも諦めの悪さは俺と似たりよったりの男だったから、またどこかで勝手に傷ついていなくなるかもしれないが、その時はその時だ。
 またこの腕を掴んでやればいい。
 どっちが先に惚れたかなんて、実際関係ないのだろうが、なにか不本意だ。俺ばかり好きなんじゃないかと疑えば、騙された気にさえなる。
 不安になるほど静かな寝息を聞きながら、それでも離されない手が、俺を好きだと言っている。
 これからもこの、堂々巡りなのかもしれない。それも一興だろう。俺はベルナルドとは違って己の考えで自縛する趣味はなかったので、アテのない考えを巡らすのは、やめた。
 こいつが俺を好きだというなら、それでいい。俺もこの感情を同じように、返すだけだ。
 ふわふわの髪の感触を掌で感じながらふと、読書灯の柔らかい光に当てられて、白い肌の上を反射する光が違う場所に気づいた。それは自分が毎朝向き合う鏡の中で見慣れたもので、思わず指を滑らせる。
 ベルナルドは深く寝入っているようだった。
 触れて、首の後ろに続くのが、やはり薄い膜の張った古い傷の端だとすぐに分かった。理由を考えるより早く、髪を掻き分ける。
 ――形容し難い、傷痕があった。間隔をあけて赤黒く裂けた場所と、首筋に続いている薄い切り傷。
 決して穏やかではない隠し事は、何年も時間を経過した色をしていた。
 あの日、恐らくこの傷を指して「くだらない」と一蹴したベルナルドの過去を思った。上手く形にはならなかったし、なったとしても俺の思い込みでしかないのですぐにやめた。
 この傷を暴き立てて優しくするのは、簡単かもしれない。或いは、意図的に知らない振りをすることも。
 髪をそっと元に戻すと、はじめから何もないようになった。
 それがベルナルドの顔だった。
 これからもベルナルドは、誰にもさらさずに生きていくつもりなのだろう。馬鹿で、自分の弱さに怯えている癖に、強い男だと思った。
 そうして、眠っているベルナルドにまた、キスをした。











xxx.xx.xxx(xxx.)



 いつだったか、ジャンとこんな会話をした。
「犬が苦手だったのね、ダーリン」
 会話? 会話だったか。とにかく、ジャンがいて、俺がいて、犬がいた。
「どこまでも追っかけてくる犬から逃げ切るには、まるい球体の中身に隠れるといいらしいぜ?」
 ジャンは最近読んだらしい小説の話をして、それで俺もザネリが翻訳した本の中にそんな話があったのを思い出した。あれは、何から逃れるための話だっただろうか。
「そんなところに隠れなければならなくなったら、俺は犬に喰われる前に死んでしまうよ」
 暗がりに一人きり。その姿を想像して俺の臆病な心は震え上がった。
 くるくると犬は自分の尻尾を追って回り続けて、ならばこの犬は誰だったのだろうか。
「まあ、結局隠れたって逃げきれないのがお決まりの結末なんだからな。だから、ダーリン。どこにも行けないルキーノじゃなくて、俺が遠くに逃がしてやるよ」

 祝砲が響いた。













Aug.1.1937 (Sun.)



「うちのマンマにみつかったら鞭をごちそうされるぜ?」
 後ろから投げかけられた言葉に、咥えた煙草の事か、それとも今俺が棺の蓋に手をかけてることを言われているか悩んでから、振り返った。
 月明かりだけでも、ネクタイもコンプレートも美しい黒で飾られたカポと目が合う。ああ、それも俺が仕立てたやつだったか、とどうでもいいことを考えてしまう。
「……俺はお前にも裁かれないといけないか?」
 へらっと自然と笑ってしまいながら問いかけると、ジャンもまた少し考え込んでから答えた。
「事と次第?」
「そうか。だったら手伝え」
 共犯にすることを選ぶと、ジャンはベルナルドに似てきた困り顔を浮かべる。
「カポ使いの荒い部下だこと」
 一番付き合いの長い関係だ。どうやっても似てくるだろう。俺にもあの男の痕跡があるのかもしれない。
 ジャンは礼拝堂のど真ん中を、神父と変わらない足取りでこちらに歩いてくると、棺越しに俺の向かいに立った。待っても、説教は始まらなかったが。
 仕方ないので、作業の続きに入った。
「何も俺の誕生日狙って死ぬことねえのにな。まったく、最後まで……」
 まだ釘を打たれていない棺に改めて手を掛ける。ジャンの手も借りて、蓋を開けると、閉じた時と同じ顔で横たわっているベルナルドがいた。
 こいつは、一昨日あっけなく死んだ。眼鏡を掛けてやれないのはそのせいだ。あっちで迷わなければいいのだが、俺が死人にしてやれることなんてそう多くはない。既に、失われてしまっているのだから。
「それで、あんたら駆け落ちでもする気なのかしらね?」
 ジャンはベルナルドの左側の髪を撫でながら、俺の方は見ずに言う。
「いいや? 煉獄で先にローストになってるだろうから、目印つけておいてやろうと思ってな」
 胸に置かれた左手を拾い上げ、胸ポケットに隠したままだった銀の指輪を取り出した。
 また、同じことをしているな、とどこかで冷めた思いで考えながら、硬直の抜けた薬指に通す。サイズはピッタリのはずだったが、やっぱりあの時と同じにうまくはまらなかった。第二関節のところで引っかかったままの指輪と、タトゥに口付けて、その手を元通りに戻した。
「レアにされても困るけど、俺達どうせ判別つかないくらい丸焦げになるんだろうし、タグのが効率よくね?」
 死体の足についてるやつ、と笑えないジョークを口にしたジャンに呆れて軽く頭をこつく。
「却下だ。ロマンがねえ」
「違いねえ」
 けらけらと、ジャンは笑った。何もなかったかのように。
 俺は棺に背中を預けて、カポに煙草を差し出した。ジャンはそれを受け取って、俺がライターを差し出す前に口元から火を奪い、何度かふかしてからずらした蓋の上に置いた。
「あんた、喪服でも色男なんだな」
 新しく渡した煙草を、今度はライターから火を受け取ったジャンは、俺を見ながらしみじみと言う。
「ベルナルドに同じ皮肉言われて、ぶん殴ったことがある」
「ハハ、なんだかんだ言って、あんたら昔から仲良しな」
「そうでもないさ」
 本当に仲が良かったと表現される関係かどうかだったかなんて、結局分からず終いだ。
 事実は、死ぬまでをそばにいるのを望んだ男との約束は、図らずも果たした形にはなったということだけで。
「それで、誓いは立てなくていいのけ? 証人ならここにいるけど」
「――言っただろ、ただの目印だ」
 先に終わった煙草をハンカチで消し潰し、ポケットに戻す。
「俺は約束を持ち出しても、こいつの口を黙らせる自信がなかったからな。笑うか?」
 ジャンがベルナルドにやった煙草を、今度は俺が咥えた。ベルナルドは死んだときと同じ顔をしている。ヤクザの死に顔としては上等だと棺に入れてやった時も思ったが、感情を表さなくなった顔に、恨みも憎みも結局俺にさせる気かと理不尽な思いを抱いた。
「つっても、ベルナルドも受け取らなかったんじゃねえのー。このおじさん、他人の弱さに乗っかるの得意だったからねえ。甘やかすことでしか自分で甘えれねえ、酷い男だ」
 生きている友人にする気安さでジャンはベルナルドの頬をつつく。
「それにお互いの弱さだろ、ソレ。片方のじゃなくてさ。でも、あんたらはそれでいいんじゃねえの」
 慰めるでもなく、どこか突き放すような声音は、酷く優しく響いた。
「あんたはベルナルドのことを、よくわかってたと思うぜ」
「……きっとなんでも知ってるけど、何にも知らない。お前と同じだ、マイ・ロード」
 吐いた煙は高い天井の薄闇に吸われて消える。こんな暗い場所に一人にしておくには忍びないと感じるのは、結局まだ俺はここに横たわっている死体を理解できていないのかもしれない。
「そういうもんだろ。俺たちは家族だけど、他人だから隣にいれるんだしな。他人だから、あんたもベルナルドも、俺やあいつを許してくれたんだろ」
「なんの話だ」
 わざとらしくとぼけて見せると、ジャンは酷く嬉しそうに笑った。
「邪魔者は消えるとするかな。それじゃあダーリン、明日は最後のお仕事だから、いい子でお綺麗な顔してろよな」
 執務室でよく見た光景が再生され、ジャンがダンスのステップのようにくるりと俺に向き直った。
「あんたも、少しは寝ろよ?」
「カヴォロ。まだまだ数日の徹夜くらい行けるさ。どこぞのナードじゃあるまいし」
 俺は棺の淵を撫で、強がって見せる。
「ハハ、徹夜は得意だっただろ。仕事の捗りそうないい夜なんだから、起きてくればいいのにな」
 ようやく、俺たちのカポは少しだけ傷ついた顔を見せた。けれど、それきりだった。
 俺たちの深い悲しみと親愛の情は、明日またこの街と組織のための見世物になる。だから、俺たちが見せ合うのは、それだけでよかった。
「……グラッツェ、カポ・ジャンカルロ。だが、俺はベルナルドに犬が近寄らないように、寝ずの番だ」
 もう一度、棺の中のベルナルドの手を撫でた。ぐにゃりと、出来損ないのゴム製品のような感触だった。
「――へ? …………俺?」
 自分を指差して首をかしげた、年より恐ろしく若く見える男に、ベルナルドが天使と言っていたのを思い出す。
 ステンドグラスから入り込む光を浴びて光る金髪は輝かしく、この場に余りにも似つかわしい。だから、違うんだと首を振る。
「お前じゃない。俺でもない。ジュリオでもないし、イヴァンでもな」
 そうして言葉の続きを待っているジャンに、俺は人差し指を立てて「秘密だ」と呟いた。

 扉が閉じられ、また二人きりになった。
 何かまだ、話し足りなかった気がするのに、こうして目の前にすると言えることはもう何もない。
 当たり前だ。終りを待っているのではなく、文字通り既に終わってしまった関係の精算を待っているだけなのだから、言うべきことなんてもう何もないのだ。通貨を支払って、それで、その先は何もない。
 俺の足元に子犬の形をした、痛みが彷徨いていた。きっとこの先、何かを、誰かを見聞きする度に思い出すのだろう。
 それがベルナルドの面倒で愛しい置き土産だった。代わりに、もう苦しまずに済む男の頬を撫でた。きっと死ぬまでこれが足首に縋り、噛まれ続ける。
 二度目だ。やり過ごし方は分かっている。そうやって、叫び出したい夜を何度も越えてきた。
 この痛みをいくたびと味わって、それでも結局女々しく手を伸ばす弱さをお前が強さと言ってくれるのなら、俺の目には終わったに等しいここは、昔憧れた通りの世界そのものなのだろう。
 誰を捨て去っても、忘れても、この世界はこんなにも美しい。
 俺の耳に、どこからか弱い犬の遠吠えが届いた。





Oct.10.1920 (Sun.)~



 俺の恐怖は犬の形をしていた。
 暗闇を引き連れて来る、犬の影だ。どこに逃げても、それは俺のあとをひたひたと追い続け、ずっと俺を脅かし続けていた。
 清潔ではないキャンプで、それでも俺は恵まれていた方だと思う。当時から視力は悪かったので、俺は殆ど後方で通信兵として過ごした。
 大戦の終戦を見ていたのが、逆に何かを鈍感にさせていた気がする。戦争に片足を突っ込むことにさほどの恐怖も感じずにいたのはそれとも、ただ単にまだまだガキだったのが理由だったかもしれないが。
 いや、きっとどこにいても俺は、同じようなつまずき方をしていただろう。
 それほど、俺は分かりやすく人生を舐めくさったガキだった。
「ワップ」
 名ばかりの前線から下がってきていた部隊の男に、蔑みをもって声を掛けられた。相手の軍服の肩の線が一つ多かったので、俺は型通りの敬礼をしたのだと思う。よく覚えていない。
「やるよ」
 そう言われ、投げよこされたものは生きた雌鶏だった。渇いた白っぽい泥のこびりついた羽が舞った。
「後方と言っても、集落すらないからな。溜まってんだろ?」
 俺の腕の中で、雌鶏がけたたましく鳴く。その些細な騒ぎを聞きつけて、いつの間にか周りにポツポツと同じ軍服を着た人間が集まりつつあった。
 目の前の上官が口にする侮辱より、騒ぎを味見しに来た他人に嫌悪を覚えた。この国ではどこに行ったって何も変わらない構図に、人より多少頭が回ると自負していた唯一で安いプライドが悪く働いて、煮詰まらせていた劣等感をつつかれた。
 本当に、ガキだったのだ。
「やってみせろよ」
 にちゃつく嘲笑を受け流せず、俺は掴んでいた雌鶏の首を、田舎にいた頃と同じように折った。甲高い断末魔が尾を引いている内に、俺は生意気な口を利いた。
「手が滑りました。夕飯にでも出します」
 痙攣している死体を今すぐ投げ捨てたかった。
 埃っぽい空気に混じって、濡れた獣の臭いに吐き気を覚える。その目をそのまま、上官にも向けていた。
「……しょうがねえな。別の貸してやるよ」
 不思議だが、その男の顔も容姿は覚えていない。耳に残ったセリフと発声から、イタリア系ではなかったのだろうと、それだけが想像できるだけで。
 ただ、その男がガムを噛みながら近づいてきて、俺を殴り飛ばした。
「跪け」
 実に楽しそうな声だった。反抗を踏みつける快楽は、今の俺になら分かる。さぞかし、嬉しかったに違いない。
 弾き飛ばされた眼鏡は、ブーツに踏み砕かれた。
「大学に入るための従軍したんだったか」
「他の役にも立たねえ癖して」
「下を脱いで跪け。命令だ」
 捲し立ててきたのは、そいつ一人だっただろうか。その場の群衆も混ざっていたのかもしれない。
 鼻血で汚れた顔面を埃と砂利の混じった地面に擦りつけて、俺は誰かの手で軍服を剥かれて、裸の尻を晒させられていた。
 頭は踏まれていたかもしれない。砂を舐めた感触と臭いは覚えている。
 やがて犬の鳴き声がした。軍用犬ということもない、ただキャンプで残飯を餌にペットにされていた犬だ。
 薄汚れて小汚い茶色に近い、オレンジの毛色をした――短毛で、目の周りが黒く縁どられた、細い癖に無駄にデカイ――。よく覚えている。
 けしかけられた犬は俺の首に喰いつき、呼吸もままならずあがいた。
 抵抗し、地面に爪を突き立てると幾つかの指から爪が剥がれる。生臭く熱い呼気が漂い、酸欠の頭で何も考えられないようになって、じわじわと赤く視界が奪われる。
 徐々に視界を奪われることは、死に近づくのを否応無しに頭に理解させる。俺はそこで初めて悲鳴を上げた。
 ショウステージのように、喝采を浴びる。
「殺しちまうのはマズいな」
 濁って聞こえた声と殆ど同時に呼吸が戻り、咳き込んだ。宥められた犬がいきり立ったペニスを剥かれて、俺の尻に誘導されているのが見えた。尻には既に何かの油がぶっかけられていたが、俺はその時、誰かに助けを求めただろうか。
 戻ってきた視界で見た犬のペニスは、切り分けた肉と同じように生々しく赤く、人のモノと同じくらいのサイズをしている癖にグロテスクに歪んでいた。
「や……め、」
 血の気のすっかり引いてしまった顔を、嘲笑われる。
 入隊前に身体検査をされた時同じように、作業的に尻穴を指で掘じられ、見た目より硬くいきりたった熱をねじ込まれた。
「ぎ、ィ――ッ」
 それだけで、俺は耐え切れず軽く吐いた。胃液が喉を焼く感覚に、どうしようもなく現実を俺につきつけた。
 俺はまだ女の肌も知らない、典型的に分かりやすい童貞だった。尻を使われるだけでも屈辱だったが、それでも獣だったから傷ついたのだ、とまでの女々しさはなかった。
 それは俺はまだ他人を憎めたからだ。その時までは。
 恥辱にまみれ、それでも誰かの目を見て、憎しみに喚いて唾を吐きつけられた。
「ころ、して――、や、る……ッ!」
 俺の頭を掴んでいた男は、俺の言葉に笑った。逆の立場だったら俺でもそうしただろう。それほど俺は無様で、それほど的確な侮辱の仕方はない。
 萎えたままの自分のペニスが、上に乗っかっている犬が人にはない速さで腰を振る度に玩具のように揺れる。
 首から伝って地面に落ちる血液の上に新しい吐瀉物をこぼしている間に、一度目の射精があった。強く押し込まれたと思うと、高い体温から放たれる水っぽいそれは、否定しようもなく身体の中に刻まれる。また、新しく吐いた。
「ハハ、気に入られたみたいだな」
 上官が俺の髪を上に引き、顔を覗き込んだ。
「ほら、こいつのためにも気分出してやれよ」
 意味を理解できないでいる頭を放られ、突っ込まれたまま初めて他人の手で扱かれた。柔らかかった俺のペニスは勝手に反応して芯を持った。
「タマの裏っかわ、犬のが擦りつけられてるの分かンだろ。ケツはそこで感じんだとよ。お勉強ができるんだったら、そっち覚えも早いんじゃないか?」
 ゴリゴリと太いコブになった犬の根元がそこを行き交うのを、無理矢理意識させられる。吐き気を伴う嫌悪の上に、白く知らない感覚が上塗りされていく恐怖に、首を振った。
「やめ、ろ……イ、いや……だ、ぅう――」
 肌が粟立つ。ペニスからの慣れた感覚に引きずられて、中からの刺激を理解しそうになるのを懸命に堪える。
「ベルナルド」
 急に名前を呼ばれた。自分を認識されていた事実に、今更はっきりと背筋が凍る。
「やめてください、お願いします、だろ。誰にモノ頼んでんだ」
 仰ぎ見ると、鶏の羽根と側に転がった死体が視界に入った。元々そういう風にあったオブジェのようなのに、土の埃っぽさと生臭さが分かりやすいく恐怖心を刺激してくる。
「――ぅ、く」
「マカロニ野郎は俺と口も聞けないってか?」
 俺の目には笑ったのが見えなかった。見えなくとも、どんな顔をしているかは分かった。
 今はきっと、捕虜相手に俺も同じ顔をしているだろう。
「おねがい、します――、も……」
 相手も見ずに生意気を言っただけのガキは、それだけで折れた。
「お前が無様にぶちまけたら終わりにしてやるよ。ほら、頑張れ」
 誰かが平手で尻を叩いた。脳がスイッチを切り替えるように痛みを鈍い快楽に変換して、俺は混乱した。
 あとは、突き落とされるように感覚がひっくり返る。防衛本能だか、限界だったのか、そういう素養があったのか、今となっては分からないが。
 俺の尻が叩かれる音というよりも、他人が触れたことが原因だか、とにかくに犬が唸り、再び俺の首に食いついた。
「ッ、か……ァ――ヒ、ぎ」
 身体を地面に押し付けられ、中の角度が変わった。再び呼吸は取り上げられた状態で、ゴリゴリと入口と腹の奥を自分のペニスの裏を堅い先に抉られ、俺は舌を突き出してよだれを垂らして、あっという間にケツでよがっていた。
「あ、ぅ…、ンッ、ふ…………、ア」
 情けなく上ずる語尾に、冷静な誰かが俺を嘲笑する。誰か、は、俺自身の顔をしている。
 圧倒的な快感の内に、再び奥に押し付けられ、二度目の射精を受けた。膨れ上がった歪なペニスから、何度も焼けるような感覚を最奥に流し込まれ、胃の淵まで満たされるような感覚になる。
 溺れ、俺は熱を吐き出すたびにビクビクと痙攣する犬の陰茎の刺激に、今まで感じたことのない強い快楽から達した。
「あ~…………、あ、ぁっ……」
 俺自身が壊れた玩具のように、声を上げた。腰を揺らしながらだらしなく白濁を地面に射精すると、どっと観衆が湧いたのを肌で感じた。
 首を解放され、長く押し付けられていたペニスを引き抜かれると元々悪い視力に涙で霞んだ目に、四つん這いのままの自分の足の間から醜い音を立てて水っぽい粘液が溢れるのが映った。
 血液と吐瀉物、それから自分の吐き出したのと犬の精液が、俺の足元の地面の色を変えている。感覚も、視界も、その何もかもが理解できずに俺はただ動けないままだった。
「ひどい目にあったな、ベルナルド」
 何も考えられない頭に、演説になれた人間の言葉が流し込まれる。
「人間様に害を成す家畜なら、駆除しないとな。お前がするべき後始末だ」
 再び髪を掴まれ無理矢理上半身を起こされ、ナイフを握らされた。俺が最初に銃と共に支給され、訓練でしか使ったことのないナイフではなく、上官がずっと使っていただろう無骨な刃物は、俺の手には余って見える。
 食っていくためではなく、ただ奪う道具を与えられ、さっきまで俺に乗っかっていた犬が、目の前にいた。
 俺を見て千切れそうに尻尾を振る犬の目に、俺が映っている。
 俺が意識すると、それはもう犬の形をしていなかった。
 ぱっくりと口を開いた喉からは、めくれた赤黒い肉がストロー状に伸びた蝶の舌のようにはみ出していた。もう、それは吠えなかった。黄色く変色した牙も、グロテスクに犬の腹の上で潰れたペニスも、俺を傷つけはしない。二度と、俺に噛み付きはしない。
「医者を呼んできてやれ」
 ぼんやりと自分の手を見ると、ナイフは赤くなっていた。身体からぽたぽたと地面に落ちて吸われていく血液は、もはや自分のものと区別がつかない。
「ベルナルド、よかったな。うまくやれば帰れるぞ?」
 上官は犬にするように、俺の頭をくしゃりと撫でた。
 その犬は、俺によく懐いていた。俺も可愛がっていた。かといって俺は特別動物好きでもなんでもなく、時折側にいた“だけ”でだった。
 手を伸ばせば大人しく頭を撫でさせてくれ、尻尾を振られた。それ以外何もない。
 ――些細な話だ。自分でもどうかと思っている。暗黒の木曜日に切り捨てられた紙切れよりは少ないかもしれなかったが、次の週末までに命を捨てさせられた人間と同じくらいにはありそうな、ありふれた話。
 それが俺がどうしようもなく、外ではなく自分を憎むようになったきっかけだった。
 くだらない話だ。
 くだらなく、どうしようもない。それでもむしろ、そのくだらなさと簡潔さ故に、俺はその犬の妄執に一生悩まされることになった。
 そうして俺は軍を抜けて、大学には入ったがさらに拗らせた劣等感だけ先に立って、誰とも関われなかった。
 巻き込まれては転がり落ち、最後には足抜けできない悪党の片棒を担がされて――このザマになった。
 犬の形をしたものが怖かった。それは暗闇を引き連れてくる。暗闇は、軍にいた頃を思い出させた。
 ムショで何度も殺されかける度に、俺に食いついた犬の影は重くなり、自分ではどうしようもないものに育っていった。
 あの頃、俺はどうやって息をしていたかさえ覚えていない。
 あのどん底でジャンと出会った。
 だから、ラッキー・“ドッグ”と言う通り名に、反射的な嫌悪を覚えた。名前の通りジャンはあの頃、本当に野良犬のような風体であったし、頭の悪いガキは嫌いだった。自分の愚かさを、どうしても重ねていたのだと思う。
 俺のコンプレックスに反して、ジャンは聡明だった。俺には到底見えないものを見つけて、測れない場所を教えてくれる。俺とはまるで違った。俺は初めて餌を与えられた犬のように、ジャンに恋をした。
 救われる気がした。許される気がした。人に押し付けていい感情ではないと思ったので、黙っていた。
 どうか、俺の天使に幸いを――。
 そうやって自分と違うことに恋をして、相手と違う自分に嫌悪した。カチカチと、時計が時間を刻むより早い速度で、犬が堅い地面を爪で蹴る足音が聞こえた気がして、俺は結局、駄目になった。
 だから今度は、はっきりと逃げるために恋をした。
 お前は俺を許さないで欲しい。そう言うこともおこがましくて口にすらできないが、ただ祈っている。
 許された瞬間に、自分を最後の一線でつなぎとめている紐が解けるように、俺は息ができなくなるに違いなかった。お前にはただの自縛にしか見えないだろうが。
 愛していないわけじゃないと言葉を尽くしても、始まりが間違っていると言われれば否定出来ない。
 言葉として問いかければあいつはどんな顔をするだろうか。
 俺が馬鹿を言うたびに呆れて向けてくる、あの酷く優しい顔で「お前の優秀なオツムは何のためについてるんだ」と笑うだろうか。
 考えるほど俺はどこにもいけなくなるというのに。








July.4.1937 (Fri.)



 早朝の電話部屋での仕事を終え、書類の束を抱えたまま執務室に入ると、珍しく夜通し外に駆り出されていたルキーノがソファで親の帰りを待ちくたびれた子供のように眠っていた。
 昨日見た時と同じコンプレートを着たまま眉間にしわを寄せ、かわいくない寝顔を晒している男は隙だらけで、年下の可愛い恋人だった。
 俺は一日の殆どの時間を、この部屋と電話部屋を行き来するのが常であったから、ルキーノはマメにこの場所に足を運んだ。
 元々、仕事柄顔を合わせるのはこの部屋が多かったが、うっかり内心を吐かされてから、まるでルキーノの方が俺を気があると主張するように通いつめるようになった。
 俺は困惑しながらも、そのおかしな状況を楽しんでいた。惚れた相手が自分に向いてくれているというだけでも、酔うには十分過ぎた。
 デスクに書類をそっと置いて、俺は物音を極力立てないように、気づかれないようにゆっくりとルキーノの隣に腰を下ろす。
 ただの美形を晒している寝顔をこっそりと覗いて、息を止めて触れるだけのキスをした。
 ガキはどっちだ、と以前のルキーノのセリフを思い出しながら苦笑する。
 座りなおすと、テーブルにはいつものようにコーヒーの満たされたサーモスとカップが一揃い、それからアイロンを掛けられた新聞が置かれていて、しばらくルキーノを起こさない理由が欲しかったので、新聞を広げた。
 一面から順に、飯の種になりそうなニュースを拾い、ファニーを通り過ぎ、小さな記事にぶち当たる。
 文字列の海に開いた小窓のような小さな写真に、ルキーノが写っていた。ルキーノのシマにある孤児院での炊き出しを皮肉った記事の横、偽善者とありきたりな罵倒で縁どられた写真の中で、ルキーノは小さな子供を抱き上げていた。
 荒い印刷では、表情まではわからなかったが、見慣れた腕が、壊れやすい人形にするように柔らかくブラウスの背中を抱いている。
 ――――俺が永遠に諦めた光景が、あった。
 カサリと写真に額をあて、俺を救わなかった神に、それでも感謝したい気分になる。幸福は、安いインクの匂いがした。
 何度となくこの世界に失望しても、犬に喰いつかれた足を引きずってでも歩み続けているのは、この瞬間があるからだと思う。
 俺の語彙力では伝えきれないだろうこの喜びを、今すぐクラッカーを鳴らして、ルキーノにキスの雨を降らせて教えたいほどに。
 泣き出しそうな喉を宥めて、俺は綺麗に折りたたんだ新聞をテーブルに置いた。その横に、差し込む柔らかな朝の光に優しいミルク色をしたカップを並べる。片方は空のまま、片方には砂糖とたっぷりとミルクを注いだ。
 サーモスを開けてカップをコーヒーで満たすと、想像していた通り、ルキーノは小さく身を捩って、パチパチを俺の好きな色の赤い目を瞬かせた。
「……ボンジョルノ、ベルナルド」
 腕が差し伸べられ、手首を掴まれる。コーヒーの匂いがした、とまだ夢心地のようにルキーノは囁く。
「それからベルガモット。指からインクとモンテクリスト――最後に、俺のために入れてくれたミルクの匂い」
 香水を評価するように絵に描いたような色男は言って、犬のように鼻をすんと鳴らす。ルキーノはイイ朝だ、と目を閉じたたまま、緩やかに囁いた。
「ああ、いい朝だ、本当に――」
 救いもなく、全てを引き摺っていく生き様が、どれほど浅ましく醜くても仕方がない。それで、俺は良かった。
 俺はこの男のようには生きられない。俺の生き汚さを、こいつが、誰が、優しく否定してくれても。
 だからこそ、俺はこの男を誰よりも美しく瞳に映す事ができる。その幸福で今、呼吸をやめてしまいたいほどに。
 また、うとうとし始めたルキーノの横顔を見ながら、年下の恋人が懐に隠したまま渡せないでいる指輪を、来月には来るこいつの誕生日にでもこっそり貰ってしまおうなどと、夢のような未来を空想した。





 下品なペンキを塗りたくったのと同じ色したスカイブルーの下に、真っ白なベンチ。隣に座るのがレースの日傘をさした、清楚なシニョーラならばこの世の楽園かもしれないが、いるのは無愛想この上ない男。
 まあ、そのベンチの側で、忠犬よろしく大人しく立ってる護衛は今日も見目麗しく。
「ガキの頃、孤児院抜け出してよく冷かしに行ってたスタンドでさ」
「――あァ?」
 俺が唐突に発した声に、俺を見ていなかったイヴァンの視線はようやくこちらを向いた。ジュリオの耳は最初からこっちを向いている。
「ガムとか、キャラメルとかにさ、ちゃちいミニカーとかさ、明らかにそのスタンドの親父が手製でこさえたみたいな、どうしようもない玩具がついてくんの」
 手繰った思い出の中で、なぜかまっさきに出てきたのがその親父の手というか、汚え軍手だもんで俺は一人で苦笑する。
「で、買わないと中身がわからなくて、何があたったって、くだらないのは分かってるけどついさ、ポケットにダイム忍ばせて行ったっけなあ」
 さしてイミのない思い出話を短く終えると、イヴァンはため息を吐いて、咥えていたロリポップの棒を吐き捨てた。
「唐突に思い出話するのは年喰った証拠だって、この間ヴェスプッチのジジイに言われた」
「そりゃ、俺達もう立派なアラサーだもの」
「ファック。で、本題はなんだよ」
 早漏かつ短気なイヴァンちゃんに合わせて俺もさくっと質問というより、答えを突き出した。
「おまけって、先に見たい派?」
 ちらりと俺は隣にも視線をやった。
「デザートのアイス先に味見しちゃう派でもいいヨ」
 遠くで葬列を見送る鐘が鳴る。
「選ぶと決まっている未来を試してみちゃう気分ってどんなもんよ。決めて選べば、サイコロを転がすみたいにはならないのにネ」
 これは自分の話だ。弾いてしまった引き金は元には戻せない。“試した”未来に今いて、結果を見ている。不可逆の結末は、果たして知っていたなら選ばなかったのか。
「俺ももう若くねえなあー」
 ぐったりと横たわりたい気持ちで、代わりに隣の男の肩にもたれ掛かる。どうせ、見られて支障の出る相手はここにはいない。
「後悔してんのか」
「いんにゃ」
 イヴァンがどこも見ずに言った言葉を、俺もさしてどこかを見ることもなく即答して、目を閉じた。
「替えが利くって言ったのは、あいつだったんだろ。なら、仕方がない」
 仕方がない。そう言い聞かせることは自分を殺すことに似ていた。
「組織のためだと言えば、あいつは喜んで命を差し出しただろ。それじゃあ、駄目だったんだ」
 一体、何が仕方がなかったかというのか。そう言ってしまえば、追い込まれたのは自分の意思になってしまうじゃないか。
「諦めっていうのは、こういうことだ。奪われたところで、あいつらは“幸せ”に違いない」
 俺の言葉と俺のしたことを二人は責めることなく、予定調和のように沈黙で肯定される。つまりはそういうことだ。
 了解いただけただろうか。つまり、これはそういう話。
 これから知る人はわざわざ味わう徒労、ご苦労サマ。もう知っている律儀な人はお帰りはアチラの方だ。
 最初から中身なんて何もない。犬も希望も明日も明後日も幸福な未来も惨殺される朝も座りのいい結末も。

 それでも終りを塗り潰す礫の雨は降る。