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祝詞

 ふと気がつくと、俺は執務室のドアの前にいた。
 くぐり慣れた扉に、ノックする形で持ち上げた腕を下ろさずに視線をずらすと、扉のすぐ横にはベルナルドの部下がいて、上司に似た堅苦しい表情を微かに歪めていた。
「……ドン・グレゴレッティ、何か?」
 今、不自然なのは俺の方だった。
「いや」
 唐突に降って湧いたその違和感を振り切って、俺は扉をノックした。いつもしているように。
 今ではカポになったジャンとベルナルドが日頃詰めているその部屋は、基本的に決まった時間に仕事を始め、時折残業を始末して仕事を上がるサイクルで回っていた。男たちが生真面目に電話と帳簿を扱う執務室では、俺たちが持っているどのフロント企業の事務所より、清廉潔白に見えた。まあ、実際警官のオフィスよりもよっぽど機能的だろう。
 ジャンも何日か前に「ヤクザの居城でマリア様の下着量産しているようなもんじゃねえの?」などとケラケラ笑っていた。軽くこついておいたが。
 開いたドアの先に、電話が並べられたマホガニーのデスクの向こう側の窓は、夜の色をしていた。僅かに窓が空いているのか、レースのカーテンが外の街灯を受けてオレンジ色の炎のように、チラチラと揺らめいている。
 昼間の騒がしさのない部屋で、幹部筆頭のベルナルドが二基あるデスクの内の荷物の多い方についていて、デスクに備付の小さなライトひとつで何かの書類に目を落としていた。
「ベルナルド」
 踏み荒らされたカーペット踏みながらデスクに近づくと、ベルナルドは半ば義理くらいの距離だけ視線を上げて俺を確認すると、すぐさま書類に意識を戻した。
「週末の夜だぞ。もう看板だ」
「もう通う店もない癖に何言ってんだ」
 ワーカーホリックが珍しいことを言うものだから、思わず口をついた返事にベルナルドの冷たい視線が改めて飛んできた。この部屋において、ベルナルドを怒らせるのは良くない自体を引き起こすのが身にしみていたので、誤魔化すように話題を振った。
「何を読んでるんだ?」
「……ザネリが翻訳してきたジャポーネの風土記のようなもんだな。歴史書かもしれんが」
 筆頭殿は思ったより容易に方向転換に乗って、ばさりとファイリングされた紙を見せつけるようにデスクに置いた。
 英語タイプの横に、原文らしき文字が整列しているのが見えた。
「また脚本でも書く気か」
 熱心にDPSの映画に関わるのを知っていて言うと、ベルナルドは歳に不釣り合いなほどの子供ように笑ってみせる。
「本職よりも楽しいからな」
 ファイルを置き去りにデスクを立ったベルナルドが、応接用のように備えられた休憩用にソファーに歩いて行って座ったので、俺も向かいに腰を下ろした。
「映画に出来そうなくらい、面白いのか?」
 テーブルの上、サーモスの中で数時間寝かしつけられて温まったコーヒーを注いでいるベルナルドに問いかけると、
「ジャンルとしてはホラー映画だが、アメリカ人には受けなさそうだ。ああ、赤字映画を作るには具合がいいが」

「呪いの話だ。言葉だけで人を病気にしたり死なせたり――意のままに操るという思想があるらしい」

「まるで魔法だな」

「いいや、そんな可愛らしい概念でもなさそうだ」
 ベルナルドはまるでアジをはじめるように恭しく腕を振った。
「例えば、死ね、殺す、なんて子供にだってたやすく言える。まあ、俺たちは実行するまでが仕事だが」

「ストリートのガキが唾と共にその言葉を吐いたところで、誰も気にも止めない。だが、俺たちが言えば違うだろ。それが、呪いなんだろう」
「飛躍しすぎじゃないか?」
「そうか?」
 首をかしげた男は瞬き一回分を沈黙してから、頷いた。
「そうだな」

「ルキーノ・グレゴレッティ」
 笑う顔にぎくりとした。空気が変わったのが分かった。
「跪け」

「一切の返答も禁止だ。従え」
 俺は言われるまま立ち上がり、ベルナルドの足元に跪いた。手を床に付ける瞬間、思わず唇から溢れた舌打ちを聞かれて、ゆらりとベルナルドの足が持ち上がり俺の肩を踏んだ。
 俺はそれに抵抗しなかった。
「なあ、これは呪いじゃないか、ルキーノ」
 "外での仕事"で見せる顔で俺の上役は薄い笑み唇に乗せて俺を見下ろしている。
「オメルタだろ……」

「名前の差だ。きっと、同じものだ」
「それは、誇りのものとは違うだろう」
「お前の過去を度々飾り立てる便所紙に踊る言葉も、*******************************************************************」
「……一緒にするな」

「一つ面白い話をしてやろう」
「今でも十分愉快だが」
「もっと痛快なやつだ」
「なあルキーノ。お前はどうやってこの部屋に入ってきた?」

「どうって、ドアをノックして……」

「ドアの外に部下はいたか」

「いつもいるだろ」

「今日は週末だぞ。俺が仕事もしてないのにいる意味がない。お前が会ったのは誰だ?」

「……おい」

「幽霊でも見たような顔をしてるな」
「冗談はやめろ」
 強がりながら、俺の背中を冷や汗が伝った。膝をついている床がまるで形をなしていないような不安定な場所のように感じられた。
 息が苦しいような気がした。目の前にいる男が本当に見知った人間かさえ分からず恐ろしくなった。
「…………悪かった。怖がらせたか?」
 空気がふっと緩んだ。
 ベルナルドはもういつもの顔をしていて、そっと足を下ろし、手を差し伸べた。
 俺は見慣れたベルナルドの顔とその手を見比べて、手を取った。僅かに自分の手が汗ばんでいるのが情けなかった。
「それでも、アレを読んでいて俺は少し恐ろしくなったよ。まったく関係のない意思に操られていると疑う時があったからな。いつだって、これは俺の本当の意思か、ってな」
 ありがちな人生の悩みを口にしたベルナルドに苦笑して、手を借り立ち上がる。
「迷うのは仕方のないことだろう?」
「迷うのは自分だが、選んだものに違和感を感じることはないか? どうして扉をノックしたのかとか、左を選んだのだとか、ジャンと同じ部屋を選ぶのだとか」
「いま、天井から俺達を見ているのは誰だ」