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regaletto

 遠くの方で水の滴る音がして、それが微かな震えと共に耳に届いた。
 身体に触れている場所は冷たく堅くて、体温を少しずつ奪う。
 身じろぎをすれば、かたりと背中の方で何かが軋む感触。
 それで横倒しになったスチール製のロッカーに放り込まれているのを思い出す。目を開けると細い光が零れているのが見えた。
 ああ、と声もなく呻く。
 ぴちゃん、とまた一つ聞こえた音が鼓膜に沁みて、ゆるりと目を閉じる。
 濡れて頬に張り付く髪が短い。眼鏡はどこかで取り落とした。ただ、この場所は静かで微かな眠りを緩やかに甘噛みする。
 恐ろしさの欠片はあった。確かにあったけれど、この身を脅かすほどでもなかった。
 …………――。
 血の滲む唇で、小さくその名前を呼ぼうとした。

*

 夢に混入した僅かな足音で、ぱちりと目を開ける。
 カーテンを閉めた窓から街灯の明かりがちらちら漏れているのみの暗闇の中でで、ゆっくりと目を慣らすように瞬きをする。
「あ、起こしたか。悪ぃ」
 机を挟んで向かいに立った男が、ばつの悪そうな声を上げて机の上に紙束を投げるように落とす。
「今週の領収書持ってきただけだ。どーせまた寝てねえんだろ。そのまま目瞑っとけ」
 薄闇の中で、かりっと飴を噛み砕く音がした。
「……ん、いや――今何時だ、イヴァン」
「あー、……さっき日付跨いだとこだな」
 うとうとしていたのは30分にも満たない時間だったらしい。掛けたままだった眼鏡の位置を直して、机に投げられた紙の束を近くに引き寄せる。
 その厚みに、自然と溜息が出た。
「ルキーノのよりはマシだろ」
「……ああ、お前は何だかんだいって組の金庫を気遣ってくれてるからな」
 零された文句にそう返す。
「このご時世だからな。これだけの金転がせるのも、目が回るような忙しさも、有り難いことだと思うべきなんだろうが」
「俺は楽して稼ぎてえよ」
 闇に慣れた視界の中で、イヴァンがしゃぶっていたロリポップのスティックをぷらぷらと唇で弄ぶ。
「この業界にローリスク・ハイリターンの事業があるなら、俺も乗っかりたいが」
「……違えねえな」
 ぬるく笑う気配に、この暗闇の中だからこそ泣き出しそうな気分で笑う。
 この僅かな会話に幸福を見出して涙が出そうだとか、俺も随分と年を取った。去年の今頃には、彼とこういう会話をする日が来るなんて、欠片も想像出来ていなかった。
「さてと、俺は花街に顔出す事になってるからもう行くわ」
「ああ、オツカレ。これは今週中に処理しとく」
「頼むわ。――あ、そうだジャンから伝言」
 踵を返しかけたイヴァンが一歩引き下がって、こちらを見る。
「ん?」
「"Buon Compleanno, Don Ortolani."」
 僅かに訛ったイタリア語が耳に届いて、思わず目を瞬かせた。
「あいつ、今日ジュリオとニューヨークに会合行っちまってるだろ。頼まれたんだよ。ジュリオもモノのついでみたいに、おめでとう、だとよ」
 分かりやすく、そのじゃれ合う光景は想像出来た。
「――Ti ringrazio.」
 微笑んで、さっきまで相手していた、各書類の処理日を記載したリストを思い出す。
 一週間くらい前までは必要になりそうな返礼用のカードを用意したりしていて覚えていたのだけれども、ここ数日の忙しさにすっかり失念していたらしい。
「俺からじゃねえって……ん、ハッピーバースディ、ベルナルド」
 視線を明後日の方向に彷徨わせて、イヴァンは気恥ずかしそうに髪を掻く。
「……サンクス」
「じゃあな。誕生日くらい多少サボってもバチあたらねーと思うぞ」
 俺の礼に被せるように、照れ隠しだかよく分からない文句をぶつくさと投げ捨ててイヴァンは部屋を出て行こうとする。
「あ、イヴァン」
「……なんだよ?」
 呼び止めると、イヴァンが開いたドアの隙間から、明るい廊下の光が零れて差す。
「電気、消してくれたのお前か?」
「…………、うっせ」
 バタンと乱暴の閉じられドアの内側で、残された空白を数秒間味わった後、くつくつと笑い声をかみ殺す。
 ジャンやジュリオとは別の意味で、見ていて飽きない男だ。
 少し、まだヤンチャだった頃のルキーノにも似ていて、昔を思い出すのと同時に新鮮で――、まあだからルキーノはイヴァンを構いながらもどこかで苦手意識を持っているんだろうけれど。
 暫しその上等のブランデーみたいな甘さを味わって、卓上のライトにスイッチを入れた。
 カチリと音を立てて世界が色を変えても、まだ夢に片足突っ込んだままのような感覚があった。
 それは小さな違和感で、一人きりで首を傾げれば、かさりと手元でイヴァンの残した領収書が音を立てる。
 その正体を探り出す前に、コンコンと今度は随分と上品にドアをノックする音が室内に落とされた。
 静かな音で滑るように開いたドアに、視線をそちらに向ける。相手はそれだけで思い当たった。
「遅くまでご苦労さんだな、ルキーノ」
「そりゃこっちの台詞だ」
 まるで自分のテリトリーと変わらない優雅さで、赤毛の男がずかずかと机の前まで歩いてくる。
「これ頼む」
 綺麗にそろえてクリップで留めた紙束が、同じようにやはり机の上に放られる。厚さはイヴァンのモノの半分くらいだが、額面は恐らくケタが幾つか違うのだろう。自然と恨みったらしくなったであろう視線をルキーノに向ける。
「お前もイヴァンくらい可愛げがあったらなあ。いや、昔はあったか」
「はあ?」
 苦々しい表情でルキーノは煙草を咥えて火を付けた。
「俺、今日コレで上がりなんだよ。文句言わず受け取れ」
「受け取りはするが、文句も差し出す。当然の権利だろ」
 拾い上げた領収書と請求書の束を軽くぺらぺらと捲り、一枚を追う毎に前髪が抜け落ちそうな気分になる。
「念のため言っとくが、必要経費だぞ?」
「だから胃が痛いんだ」
「ああ、なるほど」
 他人事のように笑うルキーノに無言で灰皿を押しつける。ルキーノは当然とばかりにその上に灰を落とす。
「しかしあんた、電話部屋分けて正解だったな。この忙しさで身一つじゃ、保たなかったんじゃないか?」
「確かにな。その辺はカポのご命令のお陰、だ」
「で、空いた手でまた新しい仕事拾ってくるわけだ。ワーカーホリックも大概にしとけよ、ベルナルド」
 妙に棘のある言い回しに、視線を上げる。
「何か怒ってるのか?」
「イヴァンに先越されたから八つ当たりしてるだけだ」
 ふぅ、と色の濃い暗がりに向かってルキーノは紫煙を吐くと、普段大変お行儀の良い男としては珍しく、机の端に座って呟く。
「――、Tanti Auguri a Bernard.」
 三小節分緩いメロディで溶けた声に、目を細める。
「……それは、どういう風の吹き回しだ」
「さて、どう思う?」
 赤毛の伊達男は、にやりと何時もの偉そうな笑みを浮かべて、向かいに広がる闇に視線をやる。
「言ったろ。俺は上がりなんだよ、この後。付き合え」
「男にデートのお誘いとは、お前もマメだな。……遠慮しとくが」
 重い引き出しを引いて、中からファイルケースを取り出す。ルキーノの領収書の束を中に収めて、その上に万年筆で“June 14, 1933”とメモ書きする。
 今日はカポと同じくアレッサンドロ顧問も留守で、代わりに夕方にはシナゴークにお伺いを立てに行く用事もある。肩書きの数字が一つカウントアップしたところで、やることは変わらず自嘲する。
「お前さあ、もう金曜を待ってるオンナも居ないんだろ」
 珍しい。ともう一度胸中で呟いた。
 ぱたりとファイルを畳んで、また引き出しに戻す。別のファイルを取り出しながら唇を歪めて呟く。
「カードとして切っちまったからな。カタギのオンナを」
 恐らく目の前の男が一番嫌うだろう言い回しをしをすると、暫しの沈黙があった。自分も無言を上書きして、ファイルを机の上に置いて開く。
「……嫌味な奴だよ、あんたは」
「俺の立場からしたら誉め言葉だな」
「マトモな死に方しねえぞ」
「するつもりもないさ」
「……――Va' fan culo.」
 吐き捨てられた言葉に苦笑して、机の上に腕を組んで背中を向けたままのルキーノを見る。
「気は使って貰わなくても結構。独り寝には慣れてる」
「慣れても寒いもんは寒いもんだろうが。馬鹿じゃねえのか」
「自覚はある」
「ほんと、腹立つなあんた」
 振り返った目に睨み付けられ、肩を竦める。
 ルキーノは灰皿の中で火を押しつぶして、まるでジャンのような気安さで髪に触れてきた。
「もう一度聞くが、どういう風の吹き回しだ」
「祝いの言葉は先越されたが、プレゼントは一番乗りだろ」
 するりと指先が髪の隙間を撫で、耳を掠めていく。
 煙草の匂いと遅れて、何時もこの男が纏うムスクの甘い香りがする。
 引きかけて動かした手が、イヴァンの残した紙束に触れてかつんと硬い音を立てた。
 お互い思わず向けてしまった視線の先で、厚い紙束の隙間から細い赤のリボンが見えている。
「……いや、それも先越されてるみたいだな」
 ルキーノが舌打ちして、俺はそのリボンの引く。可愛らしい包装のロリポップが一つするりと顔を出した。
「ようやく懐いてくれたみたいだな。あの子猫ちゃんは」
 半透明のスティックを拾い上げ、くるりと手の中で回すと赤いリボンがひらりと舞う。
「何年かかった?」
 リボンの動きを目で追っていたルキーノがふと呟いて、俺は宙に視線をさまよわせる。
「三年……かね。それでもジャンがいなければ、もっと時間が必要だったかな。いや今頃見限られてるかも」
「で、あんたもまた、そのみみっちい片思いを新たにするってか」
「――分かってるなら放っておけ」
 言ってぺりぺりとパッケージを剥がして、その可愛らしいあめちゃんをくわえる。わざとらしいほど胡散臭い、イチゴの味。
 疲れ切った頭に沁みるような甘ったるさに、小さく息を吐く。
「そういえば、ジュリオもな、あんたに何送ったらいいか分からんってジャンに相談してたな」
「……予想外だ」
「ジャンが自分が貰って嬉しいもんやれば、って恐ろしいこと言ってたぞ」
 一瞬意味が分からずルキーノの顔を見たけれど、目を眇める仕草で思い当たった。
「あー……――それは勘弁願いたいな。処理に金が掛かる」
「責任持って受け取ってやれよ」
「俺にそういう趣味はない」
「年下の可愛い勘違いも受け取ってやるってのが、年上の器量だろ」
「……そうやって、お前らは今年も俺の前髪を虐めてくれるつもりなんだな」
「来年も、再来年もな」
 そう言ってルキーノは外道らしくない表情でやたら優しく微笑むと、俺の口からロリポップを引き抜いて自分の口に収めた。
「安モンじゃねえか、あの馬鹿」
 顔をしかめたルキーノに、その安物にわざわざリボンをかけてくれた優しさが嬉しいんじゃないか、と口にはせずにロリポップを取り返して、また自分の口に戻す。
「贈り物にケチ付ける奴は、ロクな死に方しないぞ」
 舌の上にある甘さを味わいながらそう呟いて、残されていた紙束をファイルに収めた。
「するつもりもないさ」
 涼しげにルキーノが言って、一瞬見つめ合ってから笑う。
「ああ……分かったよ。お前の勘違いも受け取る。邪険にして悪かった」
 ファイルを引き出しに戻して顔を上げると、机から降りたルキーノが大げさに溜息を吐いて見せた。
「最初からそう言えばいいんだよ」
 降ってきた声に、甘やかされている匂いに、何処か死にたいような気分になった。多分、身に余るほどの幸せだと気付いたのだと思う。
 そのまま椅子から立ち上がって、部屋を出るために卓上ライトのスイッチをオフにした。柔らかな闇に小さく甘ったるい溜息を吐く。
「……、お前平気なのか?」
「ん……、」
 僅かに驚きの色を見せた声に曖昧に返事をしかけて気付いた。目が醒めた時から感じていた、違和感の正体に。
「――平気みたい、だな」
 カーペットの上を歩きルキーノの側に立つ。品定めするように俺を見る至近距離の目に、苦笑する。
「まあ、何時までも過去を言い訳に甘えてられないってことか」
 きっと一滴づつ土に染みこむ雨のような速度で、胸にはぬるい光があった。
 それはジャンだけでなく……――これはまあ、口には出来ないが。そういうことだ。
「それで、何処に連れてってくれるんだ?」
 何でもないように笑うと、そうだな、とルキーノは僅かに考え込むような仕草をみせた。
「何処へでも」
 天気でも告げるかのように簡単に言ってみせる男と目が合って、一切の嘘のないその色に瞬間見とれた。
 あの黄金色によく似た、俺を泥濘から立ち上がる力をくれた鮮やかさに。
 重ねた年を幸福だと感じるのは、自分より年若い彼らの見せてくれるその言動一つ一つが、どれ程奇跡的かを自覚出来ることだなと、暗がりの中で口元で笑みを作った。
「……最高だな」
「だろう」
 ガキみたいな無邪気さでルキーノは笑って、扉に向かって歩き始める。
 その一歩後ろで、呼び止めないまま小さく囁いた。
「Ringraziare di cuore.」
 立ち止まった男が振り返らずに応える。
「……Di niente.」
 そのまま笑う気配をさせて、またルキーノは歩き始める。
 薄く目を閉じれば、耳の奥でまた遠く水の落ちる音がした。大丈夫。まだ俺は生きていける。
 小さく口の中の甘さに歯を立てた。ティーンのガキがさせてるみたいな駄菓子の匂いを纏って、俺は笑う――。
「ベルナルド」
「……ああ」
 柔らかく呼ばれた名前に応えて、闇の中をまた一つ歩き出した。